2024年08月16日
般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」の響きが好きだ(笑)
般若心経の「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶」(ぎゃーていぎゃーてい、はらそーぎゃーてい、ぼーじーそわか)の響きがラップっぽくて好きだ(笑)
「さぁ皆一緒に、真の幸せの世界に行こうではないか!」「悟りの彼岸に到達して一切を成就しよう」という、この呼びかけに応えるにはどう生きるべきか。
般若心経は、お釈迦様(釈迦牟尼)が弟子の舎利弗(子)に語った「悟りを成就する道」であり、その語った言葉を三蔵法師が訳したものだと言われている。
「三蔵法師」というと、愚生的にはその昔の「西遊記」の夏目雅子を思い浮かべてしまう。三蔵法師というのは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことで、夏目雅子が演じた「玄奘三蔵」という人物も三蔵法師の一人に過ぎない。
般若心経は難しそうだが、文字数は題字を含め276文字。教育勅語の315字より少ない。「空」が7回、「無」が21回、「不」が9回。文字数的には「無」が多いが、般若心経の教えは「空」であり、その「空」を知り、「空」に生きることにある。
人間というのは、誰しも健康であれば明日があると思って生きている。自分だけは「直ぐには死ぬことはない」と思って生きている人が殆どだろう。「死」というものは、貧乏だろうが金持ちだろうが、誰にでも平等に与えられた道でもある。
人間というのは死に向かっているのに必死に生きる。「死と生」というこの二つは矛盾してる。生き続けるというのは、死に近付いているということでもある。
日本人の多くは仏教徒だろうが、その宗派も分からない人が多い。死んだ時だけ坊主のお経を有り難がり、死後に戒名を頂く意味すらも分かっていない(苦笑)
死んで戒名を頂くのは釈迦の弟子になるということだが、その意味を知らない仏教徒ばかり。戒名を貰ったら極楽浄土に往ける訳ではないのにな。死後も御釈迦様の弟子として修行の道を選ぶのということを理解もせずに戒名とは嗤うしかない。
仏教徒ならばせめて、「自ら苦労されて心理の世界に到達し、これこそが真理の道である」と説かれた般若心経くらいは覚えて損はないと思うが、先祖の宗派すら分からない人も多く、葬式があって初めて家の宗派を知ったなんて人はかなり多い。
愚生は仏教徒でもないし、日蓮などを信仰している訳でもないが、「仏」というのは夫夫の心に在り、「極楽浄土」は現世にこそ存在しているものだと思っている。
自分より能力的に劣る者、自分で答えが出せないでや悩んでる人に示唆したり、或いは貧しく、難渋している者を救うことこそ「極楽浄土」というものだろう。
極楽浄土や天国なんてのは、釈迦牟尼やキリストが死への恐怖を取り除く為に吐いた嘘。人間死んだら終わり、全てが「無」となる。極楽浄土とは現世に在り。
愚生は、自分の持っているものを惜しみなく与えること。何かで悩んでいる者や、自分より能力の劣る者、難渋している者を如何に助けてあげるかが極楽浄土だと思って生きて来た。そうやって生き抜いて、死を迎え「無」となるのだ。
死というものは人に平等に与えられたもので悲しいものではない。別れも宿命であり、運命なのだから起こった現実を諒として享け入れることこそ大事である。
人生とは一期一会であり、邂逅の一言に尽きると思ってはいる。人付き合いは「人に期待しない」ことを念頭に置いて人と接する方が相手のことがよく見える。
期待し過ぎると落胆も大きい。相手が裏切ろうという魂胆ならば敢えて騙されてみるのも悪くはない。人を見る目というのは生き様であり、人生哲学そのもの。
大乗仏教の中では、「華厳経」というのに興味があった。「一即一切一切即一」という「一塵の中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠が在る」という教えが好い。人間の一生なんてホンの一瞬だ。富貴利達や功名なんぞ正に夢の跡である。
愚生の好い加減な性格だから大らかな神道が合う。戒律の厳しい仏教そのものに興味はない。生前に会った坊主や仏教関係者は会話してもカッコばっかでウイットに飛ばず、自分を豪く見せ様としたり、堅苦しい輩ばかりでつまらなかったな。
末期癌を宣告された愚生もそろそろ「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(さぁ皆一緒に真の幸せの世界に行こうではないか)」という呼びかけに応じ様か。
余命僅かとなり、慌てふためくかと思ったが、意外と死への恐怖は無い。明日、死ななければならなかった特攻隊の渾身の悩みに比べたら幸せなものだ。死の世界から戻った者はおらず、彼の世っていうのは好い世界なのかも知れないなぁ(笑)
愚生の場合、身内や友人には「葬式はやらない」と伝えてある。愚妻には「死に顔は誰にも見せないで、棺桶は直ぐ閉じて早々に焼いてくれ」と伝えている。「年忌法要」や「偲ぶ会」なども煩わしいし、愚生のことなど忘れて欲しい。呵呵大笑。
「さぁ皆一緒に、真の幸せの世界に行こうではないか!」「悟りの彼岸に到達して一切を成就しよう」という、この呼びかけに応えるにはどう生きるべきか。
般若心経は、お釈迦様(釈迦牟尼)が弟子の舎利弗(子)に語った「悟りを成就する道」であり、その語った言葉を三蔵法師が訳したものだと言われている。
「三蔵法師」というと、愚生的にはその昔の「西遊記」の夏目雅子を思い浮かべてしまう。三蔵法師というのは、仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶のことで、夏目雅子が演じた「玄奘三蔵」という人物も三蔵法師の一人に過ぎない。
般若心経は難しそうだが、文字数は題字を含め276文字。教育勅語の315字より少ない。「空」が7回、「無」が21回、「不」が9回。文字数的には「無」が多いが、般若心経の教えは「空」であり、その「空」を知り、「空」に生きることにある。
人間というのは、誰しも健康であれば明日があると思って生きている。自分だけは「直ぐには死ぬことはない」と思って生きている人が殆どだろう。「死」というものは、貧乏だろうが金持ちだろうが、誰にでも平等に与えられた道でもある。
人間というのは死に向かっているのに必死に生きる。「死と生」というこの二つは矛盾してる。生き続けるというのは、死に近付いているということでもある。
日本人の多くは仏教徒だろうが、その宗派も分からない人が多い。死んだ時だけ坊主のお経を有り難がり、死後に戒名を頂く意味すらも分かっていない(苦笑)
死んで戒名を頂くのは釈迦の弟子になるということだが、その意味を知らない仏教徒ばかり。戒名を貰ったら極楽浄土に往ける訳ではないのにな。死後も御釈迦様の弟子として修行の道を選ぶのということを理解もせずに戒名とは嗤うしかない。
仏教徒ならばせめて、「自ら苦労されて心理の世界に到達し、これこそが真理の道である」と説かれた般若心経くらいは覚えて損はないと思うが、先祖の宗派すら分からない人も多く、葬式があって初めて家の宗派を知ったなんて人はかなり多い。
愚生は仏教徒でもないし、日蓮などを信仰している訳でもないが、「仏」というのは夫夫の心に在り、「極楽浄土」は現世にこそ存在しているものだと思っている。
自分より能力的に劣る者、自分で答えが出せないでや悩んでる人に示唆したり、或いは貧しく、難渋している者を救うことこそ「極楽浄土」というものだろう。
極楽浄土や天国なんてのは、釈迦牟尼やキリストが死への恐怖を取り除く為に吐いた嘘。人間死んだら終わり、全てが「無」となる。極楽浄土とは現世に在り。
愚生は、自分の持っているものを惜しみなく与えること。何かで悩んでいる者や、自分より能力の劣る者、難渋している者を如何に助けてあげるかが極楽浄土だと思って生きて来た。そうやって生き抜いて、死を迎え「無」となるのだ。
死というものは人に平等に与えられたもので悲しいものではない。別れも宿命であり、運命なのだから起こった現実を諒として享け入れることこそ大事である。
人生とは一期一会であり、邂逅の一言に尽きると思ってはいる。人付き合いは「人に期待しない」ことを念頭に置いて人と接する方が相手のことがよく見える。
期待し過ぎると落胆も大きい。相手が裏切ろうという魂胆ならば敢えて騙されてみるのも悪くはない。人を見る目というのは生き様であり、人生哲学そのもの。
大乗仏教の中では、「華厳経」というのに興味があった。「一即一切一切即一」という「一塵の中に全世界が宿り、一瞬の中に永遠が在る」という教えが好い。人間の一生なんてホンの一瞬だ。富貴利達や功名なんぞ正に夢の跡である。
愚生の好い加減な性格だから大らかな神道が合う。戒律の厳しい仏教そのものに興味はない。生前に会った坊主や仏教関係者は会話してもカッコばっかでウイットに飛ばず、自分を豪く見せ様としたり、堅苦しい輩ばかりでつまらなかったな。
末期癌を宣告された愚生もそろそろ「羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶(さぁ皆一緒に真の幸せの世界に行こうではないか)」という呼びかけに応じ様か。
余命僅かとなり、慌てふためくかと思ったが、意外と死への恐怖は無い。明日、死ななければならなかった特攻隊の渾身の悩みに比べたら幸せなものだ。死の世界から戻った者はおらず、彼の世っていうのは好い世界なのかも知れないなぁ(笑)
愚生の場合、身内や友人には「葬式はやらない」と伝えてある。愚妻には「死に顔は誰にも見せないで、棺桶は直ぐ閉じて早々に焼いてくれ」と伝えている。「年忌法要」や「偲ぶ会」なども煩わしいし、愚生のことなど忘れて欲しい。呵呵大笑。
cordial8317 at 06:48│Comments(0)
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