2023年05月06日
神社仏閣への参拝がめちゃくちゃになったのはいつの頃からか
日本人の宗教観というのは実に好い加減なもの。祖先の宗派も知らないから親や身内が死んでから宗派を知る人は多い。そんなんだから焼香すら儘ならない。
今はどの家庭も手狭になり、便利さもあって葬祭場を利用する家庭が多くなった。葬祭場の従業員は、連日繰り返される葬儀に慣れっこになり過ぎて、金儲け逞しいイベント的葬儀が目立ち、泣かせようとする演出に辟易することがよくある。
参列者は、しめやかに故人を見送ろうとしているのであって、イベント的過剰な演出は故人を冒涜にも感じる。今では過当競争で将来的には淘汰されるのは必至。
坊主は、日頃から仏の教えを語り、神主や禰宜は地元の鎮守の神が何か、神道とは何か、天皇とはどんな御存在なのかという根本的なことを教えるべきなのだが、多くの寺の坊主や神社の宮司や禰宜は、単なる生業としての宗教に甘んじる。
純粋なお悔やみを否定する訳ではないが、最低限の作法や教えは覚えるべきだ。例えば、死の報に接すると、多くの人が「ご冥福」との文言を使う。「冥福」というのは「死後の幸福をお祈りします」意味。浄土真宗では「死というのは穢れではない」から、「死後の幸せ」を意味する「冥福」は使ってはならない言葉でもある。
浄土真宗は、「故人を阿弥陀如来の智慧の光明によって極楽浄土へと導く」という真理であり、死後の幸せより、阿弥陀如来への信心を重視している宗派である。「ご冥福」というとそれらしく聞こえるからつい使いたがるが間違っている。
浄土真宗やキリスト教など宗派に拠っては故人への冒涜となることもあるから易易と使ってはいけません。故人の宗派が分からない場合は、「お悔やみ申し上げます」「ご愁傷様です」「哀悼の意を表します」などと言い換えた方が好い。
政治家の選挙活動の一環である弔電も、浄土真宗なんて関係なく「ご冥福」のオンパレード。恐らくは宗教の訓えなんぞ知らないバカな秘書がやってるのだろうが、こういう一票欲しさの選挙運動である弔電披露は故人への冒涜である。
人間というのは、誰しも健康であれば明日があると思って生きている。自分だけは「直ぐには死ぬことはない」と思って生きている人が殆どだろう。「死」というものは貧乏だろうが金持ちだろうが、誰にでも平等に与えられた道でもある。
人間というのは死に向かっているのに必死に生きる。「死と生」というこの二つは矛盾してる。生き続けるというのは、死に近付いているということでもある。
日本人の多くは仏教徒だろうが、その宗派も分からない人が多い。死んだ時だけ坊主のお経を有り難がり、死後に戒名を頂く意味すらも分かっていない(苦笑)
抑々、自分の家や先祖の宗派を知ってる人は少ない。宗派や仏教の教えを理解していないから「ご冥福を」などという言葉が簡単に口から出てしまうのだ。
そういう人に限って、墓参りにしても宗派関係なく「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」で済ませていないか。まぁ、墓参りしてるだけ好い方か。墓参りにしたって、立派な墓を建てたところで息子や孫までで、その後は廃れて行くだろう。
愚生の実家は真言宗だから「南無大師遍照金剛」と唱える。愚妻の実家は曹洞宗だから「南無釈迦牟尼仏」。然し乍ら、身内でさえきちんと唱えている人は少ない。
最近は、テレビ番組などでも神社からの中継も増えた。昔は「二礼二拍手一礼」という神社の作法が、GHQが謀った「神道指令」の報道規制に引っ掛かるということもあり、冒頭の礼で終わり映像が別のシーン替えられたりしていたと記憶する。
参拝のシーンが映されるのは結構なことだが、多くの参拝の作法が二礼二拍手までは好いのだが、最後の一礼の際に何故か手を合わせて祈っている人が殆ど。
寺じゃないのだから手を合わせるのではなく頭を下げるのが正しい。拍手も神を呼ぶもので大きな音を出すのが好い。神様を拝むには先ず心身を清めることが大事で、仏教にしろ宗教も同じ。神道では清浄という「禊(みそぎ)」を尊ぶ。
伊勢神宮に未だ橋が無かった時代には本殿に参拝するには五十鈴川を渡らねばならず、自然に禊が出来る様になっていた。神社には参道や本殿近くに「手水舎(てみずや)」が置かれているので、ここで身を清めることは大事な作法の一つ。
手水舎は「禊」の場所であり重要な場所である。手も清めず口も漱がずに本殿に参じることはイケません。 何度もアップしてるが、手水を取る作法は次の通り。
1 先ず、右手で柄杓を取り、清水を汲み左手に掛け清める。
2 次に柄杓を持ち替え、同じ様に右手を清める
3 再び柄杓を右手に戻し、左手に清水を注ぎ口を漱ぐ
4 最後に柄杓を立てながら残った清水で柄杓を清め、伏せて置く
そうして参道を通り神前へ向かうのだが、参道の中央は神様の通る道なので、真ん中を避けて歩くことが礼儀。堂々と真ん中を歩いている人が多いが間違いだ。
神前に立ち、賽銭を入れ、鈴(ある場合)を鳴らし、「二礼二拍手一礼」で参拝する。礼が終わったら頭を垂れ、「祓え給え、清め給え、守り給え、幸え給え」と唱え、感謝の言葉や願懸けをする。最後の一礼の際に両手を合わせ祈っている人がいるが、寺院ではないので頭を垂れるのが社頭での正しい参拝の作法である。
全国津々浦々にに神社は沢山在るが、「神様とは何か」「神道とは何か」を知る人は少ない。当り前に存在しているものとだけしか受け止めてはいない。その神道の祭祀を斎行する天皇という存在も同じで、「現神(あきつかみ)としての天皇とは何か」「祭祀とは何故に重要か」ということを教わることも、知ろうともしない。
神社というのは近所に当り前に在って、祭りがあるから愉しもうというだけで、神への感謝の気持ちは持ち合わせてはいない。寺も同じで「近くの坊さんえらくない」という諺じゃないが、葬式や法事だけ頼む存在となってしまっている。
釈迦牟尼の教えを全て教え、実践しろとは言わないし、神道を学び天皇を敬えとは言わないまでも、せめてきちんとした参拝の作法を教えるべきだと思う。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
今はどの家庭も手狭になり、便利さもあって葬祭場を利用する家庭が多くなった。葬祭場の従業員は、連日繰り返される葬儀に慣れっこになり過ぎて、金儲け逞しいイベント的葬儀が目立ち、泣かせようとする演出に辟易することがよくある。
参列者は、しめやかに故人を見送ろうとしているのであって、イベント的過剰な演出は故人を冒涜にも感じる。今では過当競争で将来的には淘汰されるのは必至。
坊主は、日頃から仏の教えを語り、神主や禰宜は地元の鎮守の神が何か、神道とは何か、天皇とはどんな御存在なのかという根本的なことを教えるべきなのだが、多くの寺の坊主や神社の宮司や禰宜は、単なる生業としての宗教に甘んじる。
純粋なお悔やみを否定する訳ではないが、最低限の作法や教えは覚えるべきだ。例えば、死の報に接すると、多くの人が「ご冥福」との文言を使う。「冥福」というのは「死後の幸福をお祈りします」意味。浄土真宗では「死というのは穢れではない」から、「死後の幸せ」を意味する「冥福」は使ってはならない言葉でもある。
浄土真宗は、「故人を阿弥陀如来の智慧の光明によって極楽浄土へと導く」という真理であり、死後の幸せより、阿弥陀如来への信心を重視している宗派である。「ご冥福」というとそれらしく聞こえるからつい使いたがるが間違っている。
浄土真宗やキリスト教など宗派に拠っては故人への冒涜となることもあるから易易と使ってはいけません。故人の宗派が分からない場合は、「お悔やみ申し上げます」「ご愁傷様です」「哀悼の意を表します」などと言い換えた方が好い。
政治家の選挙活動の一環である弔電も、浄土真宗なんて関係なく「ご冥福」のオンパレード。恐らくは宗教の訓えなんぞ知らないバカな秘書がやってるのだろうが、こういう一票欲しさの選挙運動である弔電披露は故人への冒涜である。
人間というのは、誰しも健康であれば明日があると思って生きている。自分だけは「直ぐには死ぬことはない」と思って生きている人が殆どだろう。「死」というものは貧乏だろうが金持ちだろうが、誰にでも平等に与えられた道でもある。
人間というのは死に向かっているのに必死に生きる。「死と生」というこの二つは矛盾してる。生き続けるというのは、死に近付いているということでもある。
日本人の多くは仏教徒だろうが、その宗派も分からない人が多い。死んだ時だけ坊主のお経を有り難がり、死後に戒名を頂く意味すらも分かっていない(苦笑)
抑々、自分の家や先祖の宗派を知ってる人は少ない。宗派や仏教の教えを理解していないから「ご冥福を」などという言葉が簡単に口から出てしまうのだ。
そういう人に限って、墓参りにしても宗派関係なく「南無阿弥陀仏」や「南無妙法蓮華経」で済ませていないか。まぁ、墓参りしてるだけ好い方か。墓参りにしたって、立派な墓を建てたところで息子や孫までで、その後は廃れて行くだろう。
愚生の実家は真言宗だから「南無大師遍照金剛」と唱える。愚妻の実家は曹洞宗だから「南無釈迦牟尼仏」。然し乍ら、身内でさえきちんと唱えている人は少ない。
最近は、テレビ番組などでも神社からの中継も増えた。昔は「二礼二拍手一礼」という神社の作法が、GHQが謀った「神道指令」の報道規制に引っ掛かるということもあり、冒頭の礼で終わり映像が別のシーン替えられたりしていたと記憶する。
参拝のシーンが映されるのは結構なことだが、多くの参拝の作法が二礼二拍手までは好いのだが、最後の一礼の際に何故か手を合わせて祈っている人が殆ど。
寺じゃないのだから手を合わせるのではなく頭を下げるのが正しい。拍手も神を呼ぶもので大きな音を出すのが好い。神様を拝むには先ず心身を清めることが大事で、仏教にしろ宗教も同じ。神道では清浄という「禊(みそぎ)」を尊ぶ。
伊勢神宮に未だ橋が無かった時代には本殿に参拝するには五十鈴川を渡らねばならず、自然に禊が出来る様になっていた。神社には参道や本殿近くに「手水舎(てみずや)」が置かれているので、ここで身を清めることは大事な作法の一つ。
手水舎は「禊」の場所であり重要な場所である。手も清めず口も漱がずに本殿に参じることはイケません。 何度もアップしてるが、手水を取る作法は次の通り。
1 先ず、右手で柄杓を取り、清水を汲み左手に掛け清める。
2 次に柄杓を持ち替え、同じ様に右手を清める
3 再び柄杓を右手に戻し、左手に清水を注ぎ口を漱ぐ
4 最後に柄杓を立てながら残った清水で柄杓を清め、伏せて置く
そうして参道を通り神前へ向かうのだが、参道の中央は神様の通る道なので、真ん中を避けて歩くことが礼儀。堂々と真ん中を歩いている人が多いが間違いだ。
神前に立ち、賽銭を入れ、鈴(ある場合)を鳴らし、「二礼二拍手一礼」で参拝する。礼が終わったら頭を垂れ、「祓え給え、清め給え、守り給え、幸え給え」と唱え、感謝の言葉や願懸けをする。最後の一礼の際に両手を合わせ祈っている人がいるが、寺院ではないので頭を垂れるのが社頭での正しい参拝の作法である。
全国津々浦々にに神社は沢山在るが、「神様とは何か」「神道とは何か」を知る人は少ない。当り前に存在しているものとだけしか受け止めてはいない。その神道の祭祀を斎行する天皇という存在も同じで、「現神(あきつかみ)としての天皇とは何か」「祭祀とは何故に重要か」ということを教わることも、知ろうともしない。
神社というのは近所に当り前に在って、祭りがあるから愉しもうというだけで、神への感謝の気持ちは持ち合わせてはいない。寺も同じで「近くの坊さんえらくない」という諺じゃないが、葬式や法事だけ頼む存在となってしまっている。
釈迦牟尼の教えを全て教え、実践しろとは言わないし、神道を学び天皇を敬えとは言わないまでも、せめてきちんとした参拝の作法を教えるべきだと思う。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
cordial8317 at 06:06│Comments(0)
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