2023年03月27日
我、未だ木鶏足り得ず(ワレ、イマダモッケイタリエズ)
大相撲春場所は横綱・照ノ富士と大関・貴景勝の休場の中で、関脇・霧馬山が先行していた小結・大栄翔を本割で下し、優勝決定戦を制して初優勝を飾った。
今場所は小兵力士の翠富士の活躍や、元大関の高安や正代の全盛期を彷彿する力強い相撲は観ていて愉しかった。来場所は霧馬山の大関獲りや若元春が関脇に就くだろうし、照ノ富士が復帰しと朝乃山の帰り入幕と益々大相撲から目が離せない。
福島市出身の関脇・若隆景は初日から5連敗。6日目からは盛り返して、琴の若との一戦で勝利し7勝6敗としたが、右前十字靱帯損傷及び右外側半月板損傷で3ヶ月の重傷を負ってしまった。残念だが、焦らずしっかりと治療に専念して欲しい。
大相撲の歴史の中で不世出の関取といえばやはり「双葉山」だろう。双葉山は強さに加え、美しさがあったという。土俵に上がったら無駄な動きはせず必ず受けて立った。一度負けた相手には負けることがなかったことからもその努力が窺える。
「我、未だ木鶏足り得ず」「木鶏に似たり」「木鶏子夜に鳴く」という諺がある。「荘子」や「列子」などの古典に出て来る寓話である。本当に強い闘鶏というのは、空威張りもしないし、無闇に戦闘的でもなく、木で作った鶏の如く相手を見据えじっとしているという。「木鶏」の言葉で有名なのは双葉山の逸話だろう。
双葉山は、陽明学者の安岡正篤に「木鶏の様になれば徳が充実し、勝敗も超越して天下無敵となる」と教わると、その教えに応えようと努力した。前頭二枚目から破竹の69連勝で一気に横綱に上り詰めたのは、その教えの下で努力した結果だろうか。
昭和14年1月14日、双葉山は安芸の海に敗れて連勝記録は止まった。双葉山は、欧州航路でインド洋上にあった安岡に「イマダモッケイタリエズ」と打電した。
双葉山の四股名は「栴檀は双葉より芳し」からの命名。その意味は、「大成する人物は、幼い頃から人並み外れて 優れたところがあること」の喩えである。
引退した横綱・白鵬は双葉山の相撲を手本にしたというが、張り差しなどの無様な相撲の何処が双葉山の相撲か。所作にしろ横綱の威厳と風格が全く違う。
白鵬は双葉山と比べられ、「横綱なら受けて立ち、自分が不利な体勢からも勝たなければならない」などと批判されるがそれは無理というものだろう。というのも、横綱・双葉山は片目が見えない隻眼だった故に誰にでも受けて立ったのだ。
記者からの質問に双葉山は、「目が悪かったので、自分から突っかけるのは不利だと思った」と述べている。6歳の時に友達と吹き矢で遊んでいる際に、その矢が右目に刺さり失明する。更には少年時代に、父親の海運業の手伝いをしていた際に、錨の巻き上げ作業で右手小指を潰してしまうという災難に遭っている。
父の海運業が失敗すると、知人であった警察の勧めで立浪部屋に入門する。右目は失明、右手小指も動かないというハンデを克服し、69連勝を達成し、横綱に上り詰めた偉業は素晴らしい。だが、その苦労は双葉山本人にしか分からないだろう。
69連勝で止まった双葉山は、その後、福岡県の山中で滝に打たれ修業し、再び連勝を重ねるものの、昭和20年8月15日、大東亜戦争での日本軍の敗戦に大きな衝撃を受け引退を決意したという。正しく横綱・双葉山とは愛国者でもあったのだ。
「名選手、必ずしも名監督に成れず」と言うが双葉山は違った。時津風親方となってからは相撲界の改革を実行し、一代で一横綱、三大関、幕内26名と育てた関取の合計は48名という名親方でもあった。大相撲の伝説は双葉山に適うものは無い。
隻眼といえば、伊達政宗や北一輝、乃木希典もまた幼少の頃に左目の視力を失っている。全盲の国学者であった塙保己一にしろ障害を克服した努力の人は多い。その中でも、双葉山の場合は身体がものをいう力士なのだから驚く他はない。
双葉山はハンデキャップを乗り越え、稽古と研究、精神の修養を続けた。力士としてだけではなく、日本人の模範ともいえる人格者だった。五体満足の愚生は一体何をやっているのやら。強烈な努力どころか不断の努力の乏しさを思い知る。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
今場所は小兵力士の翠富士の活躍や、元大関の高安や正代の全盛期を彷彿する力強い相撲は観ていて愉しかった。来場所は霧馬山の大関獲りや若元春が関脇に就くだろうし、照ノ富士が復帰しと朝乃山の帰り入幕と益々大相撲から目が離せない。
福島市出身の関脇・若隆景は初日から5連敗。6日目からは盛り返して、琴の若との一戦で勝利し7勝6敗としたが、右前十字靱帯損傷及び右外側半月板損傷で3ヶ月の重傷を負ってしまった。残念だが、焦らずしっかりと治療に専念して欲しい。
大相撲の歴史の中で不世出の関取といえばやはり「双葉山」だろう。双葉山は強さに加え、美しさがあったという。土俵に上がったら無駄な動きはせず必ず受けて立った。一度負けた相手には負けることがなかったことからもその努力が窺える。
「我、未だ木鶏足り得ず」「木鶏に似たり」「木鶏子夜に鳴く」という諺がある。「荘子」や「列子」などの古典に出て来る寓話である。本当に強い闘鶏というのは、空威張りもしないし、無闇に戦闘的でもなく、木で作った鶏の如く相手を見据えじっとしているという。「木鶏」の言葉で有名なのは双葉山の逸話だろう。
双葉山は、陽明学者の安岡正篤に「木鶏の様になれば徳が充実し、勝敗も超越して天下無敵となる」と教わると、その教えに応えようと努力した。前頭二枚目から破竹の69連勝で一気に横綱に上り詰めたのは、その教えの下で努力した結果だろうか。
昭和14年1月14日、双葉山は安芸の海に敗れて連勝記録は止まった。双葉山は、欧州航路でインド洋上にあった安岡に「イマダモッケイタリエズ」と打電した。
双葉山の四股名は「栴檀は双葉より芳し」からの命名。その意味は、「大成する人物は、幼い頃から人並み外れて 優れたところがあること」の喩えである。
引退した横綱・白鵬は双葉山の相撲を手本にしたというが、張り差しなどの無様な相撲の何処が双葉山の相撲か。所作にしろ横綱の威厳と風格が全く違う。
白鵬は双葉山と比べられ、「横綱なら受けて立ち、自分が不利な体勢からも勝たなければならない」などと批判されるがそれは無理というものだろう。というのも、横綱・双葉山は片目が見えない隻眼だった故に誰にでも受けて立ったのだ。
記者からの質問に双葉山は、「目が悪かったので、自分から突っかけるのは不利だと思った」と述べている。6歳の時に友達と吹き矢で遊んでいる際に、その矢が右目に刺さり失明する。更には少年時代に、父親の海運業の手伝いをしていた際に、錨の巻き上げ作業で右手小指を潰してしまうという災難に遭っている。
父の海運業が失敗すると、知人であった警察の勧めで立浪部屋に入門する。右目は失明、右手小指も動かないというハンデを克服し、69連勝を達成し、横綱に上り詰めた偉業は素晴らしい。だが、その苦労は双葉山本人にしか分からないだろう。
69連勝で止まった双葉山は、その後、福岡県の山中で滝に打たれ修業し、再び連勝を重ねるものの、昭和20年8月15日、大東亜戦争での日本軍の敗戦に大きな衝撃を受け引退を決意したという。正しく横綱・双葉山とは愛国者でもあったのだ。
「名選手、必ずしも名監督に成れず」と言うが双葉山は違った。時津風親方となってからは相撲界の改革を実行し、一代で一横綱、三大関、幕内26名と育てた関取の合計は48名という名親方でもあった。大相撲の伝説は双葉山に適うものは無い。
隻眼といえば、伊達政宗や北一輝、乃木希典もまた幼少の頃に左目の視力を失っている。全盲の国学者であった塙保己一にしろ障害を克服した努力の人は多い。その中でも、双葉山の場合は身体がものをいう力士なのだから驚く他はない。
双葉山はハンデキャップを乗り越え、稽古と研究、精神の修養を続けた。力士としてだけではなく、日本人の模範ともいえる人格者だった。五体満足の愚生は一体何をやっているのやら。強烈な努力どころか不断の努力の乏しさを思い知る。
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cordial8317 at 05:30│Comments(0)
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