2022年04月18日
パプアニューギニアのブーゲンビル上空で撃墜され戦死した山本五十六
昭和18年4月18日、27代連合艦隊司令長官山本五十六元帥がパプアニューギニアのブーゲンビル上空で撃墜され戦死した。山本五十六に対しては「愚将」の評価を散見するが、当時の軍部の魑魅魍魎を現代の価値観で論ずることに意味は無い。
以前、長岡市の山本五十六記念館を訪れたことがある。遺品などの他に搭乗していた戦闘機の翼が展示されていて、翼に向かって頭を垂れ暫し黙祷を捧げた。
遺品の中でも驚いたのが、入口前に展示してあった15歳の時に友人に宛てたという手紙。五十六の達筆さも然ることながら文章力の高さは驚くばかりだった。
正に神童と称えられた五十六の片鱗を窺えるもので、「栴檀は双葉より芳し」という格言通り、天才とは生まれながらにして天才なのだと痛感したのを思い出す。
長岡市といえば愚生が尊敬して止まない河井継之助だ。愚生的には幕末の英雄では、坂本龍馬や吉田松陰より、長岡藩家老の河井継之助を置いて他にない。
継之助を一躍有名にした司馬遼太郎の小説「峠」だろう。司馬は継之助を武士道倫理に生きた「最後の侍」だとして、その生き様を活き活きと描いている。茶屋遊びの場面を想像しても、河井は人間味に溢れた武士だったと思っている。
多くの歴史家も継之助を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げる一方で、「長岡藩を要らぬ戦争へ巻き込んだ」との批判があるのも確か。そういう意味では、五十六の真珠湾攻撃への評価と似ている。そうした歴史的評価より異なものは縁である。
幕末、江戸城開城、上野寛永寺の戦いなどにも勝利した西軍は、会津を目指し北上し山賊の如き蛮行を繰り返した。北越の地にも西軍が迫ると、西軍の岩村精一郎と継之助の会談が行われるも決裂し、継之助は東軍勢力として戦うことを決意する。
長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、「北越戦争」へと突入する。北越戊辰戦争に於いて、長岡藩兵は継之助が備えた近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により、開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。
然し、圧倒的物量を有する西軍に比べ、絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め長岡城を奪われてしまう。だが、その後の「今町の戦い」を制して逆襲に転じると「八丁沖渡沼作戦」を実施し、翌日に長岡城を再び奪還することに成功する。
これは軍事史に残る快挙であり、関東軍参謀で陸軍中将・石原莞爾の陸軍大学校の卒業論文は継之助のこの戦術を研究したものである。だが、この長岡城奪還の代償は大きく、奪還を果たした当日、継之助は左膝下に被弾、重傷を負った。
継之助の負傷に因り長岡藩の士気が下がり、戦線は次第に後退して行った。日々戦局は益々不利となり、継之助の傷も化膿が酷くなり、終には破傷風に罹ってしまった。継之助は已む無く長岡を去り会津での捲土重来を期すこととなった。
惜しくも継之助は志半ばで、奥会津の只見の地で幽冥境を異にした。だが、この後には続きがある。残された長岡藩士は長岡へは戻ることなく会津へ向かった。
長岡藩上席家老で大隊長の山本帯刀もその中の一人。山本以下44名(菩提寺の碑に刻まれてる数字で46名とも言われている)は濃霧の為に敵が見えず、味方の会津藩だと思われた軍勢は、霧が明けてみれば西軍の然もそのど真ん中だった。
会津同盟軍から孤立し、西軍に銃撃されるも勇猛果敢に応戦した。32名が戦死し、14名が生け捕りにされた。薩摩藩淵辺直右衛門ら3人の軍監は山本らに降伏を迫る。帯刀は「我らは降伏に来たのではない。戦いに来たのだ」と降伏を拒否する。
この覚悟と潔さ、天晴れ。帯刀を始め長岡藩士の斬首が決まり、9月8日、藩主、そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散って逝った。帯刀、24歳。
彼らの遺骨は会津若松市の「本光寺」に懇ろに葬られている。山本帯刀亡き後、山本家は廃絶。明治に入り、罪は赦面となるも、跡継ぎの居ない山本家は廃家状態となっていた。そこで、山本家は長岡士族の高野家より養子縁組をすることにする。
その養子こそが高野定吉の六男だった、後の連合艦隊司令長官・山本五十六元帥である。因みに、五十六の妻・禮子は会津士族の娘であり、河井継之助と山本五十六という悲運の武将二人と、悲運の会津藩が不思議な縁で繋がっている。合掌。
苦しいこともあるだろう。
言い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるだろう。
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員は300000円~。
以前、長岡市の山本五十六記念館を訪れたことがある。遺品などの他に搭乗していた戦闘機の翼が展示されていて、翼に向かって頭を垂れ暫し黙祷を捧げた。
遺品の中でも驚いたのが、入口前に展示してあった15歳の時に友人に宛てたという手紙。五十六の達筆さも然ることながら文章力の高さは驚くばかりだった。
正に神童と称えられた五十六の片鱗を窺えるもので、「栴檀は双葉より芳し」という格言通り、天才とは生まれながらにして天才なのだと痛感したのを思い出す。
長岡市といえば愚生が尊敬して止まない河井継之助だ。愚生的には幕末の英雄では、坂本龍馬や吉田松陰より、長岡藩家老の河井継之助を置いて他にない。
継之助を一躍有名にした司馬遼太郎の小説「峠」だろう。司馬は継之助を武士道倫理に生きた「最後の侍」だとして、その生き様を活き活きと描いている。茶屋遊びの場面を想像しても、河井は人間味に溢れた武士だったと思っている。
多くの歴史家も継之助を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げる一方で、「長岡藩を要らぬ戦争へ巻き込んだ」との批判があるのも確か。そういう意味では、五十六の真珠湾攻撃への評価と似ている。そうした歴史的評価より異なものは縁である。
幕末、江戸城開城、上野寛永寺の戦いなどにも勝利した西軍は、会津を目指し北上し山賊の如き蛮行を繰り返した。北越の地にも西軍が迫ると、西軍の岩村精一郎と継之助の会談が行われるも決裂し、継之助は東軍勢力として戦うことを決意する。
長岡藩は奥羽列藩同盟に加わり、「北越戦争」へと突入する。北越戊辰戦争に於いて、長岡藩兵は継之助が備えた近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により、開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。
然し、圧倒的物量を有する西軍に比べ、絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め長岡城を奪われてしまう。だが、その後の「今町の戦い」を制して逆襲に転じると「八丁沖渡沼作戦」を実施し、翌日に長岡城を再び奪還することに成功する。
これは軍事史に残る快挙であり、関東軍参謀で陸軍中将・石原莞爾の陸軍大学校の卒業論文は継之助のこの戦術を研究したものである。だが、この長岡城奪還の代償は大きく、奪還を果たした当日、継之助は左膝下に被弾、重傷を負った。
継之助の負傷に因り長岡藩の士気が下がり、戦線は次第に後退して行った。日々戦局は益々不利となり、継之助の傷も化膿が酷くなり、終には破傷風に罹ってしまった。継之助は已む無く長岡を去り会津での捲土重来を期すこととなった。
惜しくも継之助は志半ばで、奥会津の只見の地で幽冥境を異にした。だが、この後には続きがある。残された長岡藩士は長岡へは戻ることなく会津へ向かった。
長岡藩上席家老で大隊長の山本帯刀もその中の一人。山本以下44名(菩提寺の碑に刻まれてる数字で46名とも言われている)は濃霧の為に敵が見えず、味方の会津藩だと思われた軍勢は、霧が明けてみれば西軍の然もそのど真ん中だった。
会津同盟軍から孤立し、西軍に銃撃されるも勇猛果敢に応戦した。32名が戦死し、14名が生け捕りにされた。薩摩藩淵辺直右衛門ら3人の軍監は山本らに降伏を迫る。帯刀は「我らは降伏に来たのではない。戦いに来たのだ」と降伏を拒否する。
この覚悟と潔さ、天晴れ。帯刀を始め長岡藩士の斬首が決まり、9月8日、藩主、そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散って逝った。帯刀、24歳。
彼らの遺骨は会津若松市の「本光寺」に懇ろに葬られている。山本帯刀亡き後、山本家は廃絶。明治に入り、罪は赦面となるも、跡継ぎの居ない山本家は廃家状態となっていた。そこで、山本家は長岡士族の高野家より養子縁組をすることにする。
その養子こそが高野定吉の六男だった、後の連合艦隊司令長官・山本五十六元帥である。因みに、五十六の妻・禮子は会津士族の娘であり、河井継之助と山本五十六という悲運の武将二人と、悲運の会津藩が不思議な縁で繋がっている。合掌。
苦しいこともあるだろう。
言い度いこともあるだろう。
不満なこともあるだろう。
腹の立つこともあるだろう。
泣き度いこともあるだろう。
これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。
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cordial8317 at 08:22│Comments(0)
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