2021年12月09日
本日は「地久節」であり「母の日」でもある
本日12月9日は皇后陛下の御生誕日。謹んで御祝詞申し上げます。
戦前は「地久節」として御祝い申し上げた日であります。地久(ちきゅう)とは、老子の「天長地久(天は長く地は久し)」からの典拠である。「天地の存在は永遠であること。天地が永久である様に物事がいつまでも続く」との喩え。
昭和6年、昭和天皇の皇后である香淳皇后(こうじゅんこうごう)の御生誕日である3月6日が「母の日」に定められた。現在の母の日は3月6日ではなく、米国と同じ5月の第二日曜日となっている。こうした米国の価値観の押付けは数多に在る。
戦後、GHQが謀った日本弱体化工作に因り「天長節」が「天皇誕生日」に変更され、地久節は消されたが、本来ならば今日が日本国民の「母の日」でもある。
テレビでは「皇后まさ子さまの誕生日」という報道が流され、新聞には皇后陛下の感想文が掲載されている。その脇には医師団の見解要旨が記載され、「依然として快復の途上にあり、体調には波がある」との意見が添えられている。
それにしても思うのはマスコミの報道だ。如何にも皇后陛下への親しみ易さを演出しているが、陛下や皇室のことというのは、喩え褒めることであってもそれを軽々に口にすることは不敬である。親しみ易さは、一方では尊厳を薄れさせる。
「皇后陛下」と呼称せずに「皇后さま」とか「雅子さま」との呼ぶことは、「開かれた皇室論」という反天皇運動の実践であり、国民が殆ど知らぬまに、ソ連共産党から日本共産党へ送られた命令書の忠実な遂行を謀ってると言っても過言ではない。
日本人であるならば「皇后陛下」「敬宮愛子内親殿下」「秋篠宮妃殿下(内親王殿下)」「悠仁親王殿下」と称するべきで、こうした敬称略・敬語不使用運動も反天皇運動の一環であり、我が国の伝統文化や美徳が喪失して行くことを自覚すべきだ。
戦前の様に「畏れ多くも畏くも」とは言わないまでも正式な敬称で呼ぶべきで、日本国民として節度ある敬意を表するのは当然のことだ。皇室の御存在は決して開かれるべきものでもなければ、親近感を抱く様な軽々しいものでもない。
我が国は天皇陛下を族長と仰ぐ家族国家であり、この国體は正しく万邦無比である。陛下や皇室のことというのは、喩え、褒めることであってもそれを口にすることは不敬だと思っているし、軍隊経験のあった父親からもそう教わって来た。
右翼の世界に入り、右翼に対して違和感を持ったのは、口では「尊皇」を唱えながら、皇室を軽々しく扱っているのではと思うことが少なくなかった。
例えば「天長節」や正月に行われる一般参賀に、国民服や背広ではなく私服や平服、或いは右翼スタイルの隊服で皇居に赴く右翼人が目立つ。尊び敬うべき陛下に拝謁するのに、ノーネクタイというのは右翼人以前の問題で常識を疑ってしまう。
正月だからか、笑点に出る落語家かと見間違える様な派手な着流し姿で参賀する右翼幹部も見かけるが、着物を着るなら袴を着用するのが日本人としての常識。
SNSでも御真影を軽々しくアップしてるが、皇室に係わる問題は避け、画像のアップも控える様にしている。前科持ちの右翼如きが皇室を語ることは贔屓の引き倒しであり、陛下への尊厳をも穢すことにもなり兼ねないと思っているからだ。
保守や愛国者を自任するのであるならば、天皇とは「神聖にして侵すべからず」に尽きる。親しみを以て画像をアップしたりしているのだろうが、それは「開かれた皇室論」を容認するものであり、歪な愛国心のひけらかしとしか思えない。
右翼陣営や自称・愛国者や保守派が、ネットと雖も気安く御真影や動向などを貼り付けるのは、1932年、ソ連共産党から日本共産党へ出された「コミュンテルンテーゼ(命令書)」である、所謂「天皇制廃止運動」に与するものと自覚せよ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント入力希望の方や御意見、メッセージは mr.cordial@live.jp へ御気軽にどうぞ。
〈会費&御支援〉みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ
戦前は「地久節」として御祝い申し上げた日であります。地久(ちきゅう)とは、老子の「天長地久(天は長く地は久し)」からの典拠である。「天地の存在は永遠であること。天地が永久である様に物事がいつまでも続く」との喩え。
昭和6年、昭和天皇の皇后である香淳皇后(こうじゅんこうごう)の御生誕日である3月6日が「母の日」に定められた。現在の母の日は3月6日ではなく、米国と同じ5月の第二日曜日となっている。こうした米国の価値観の押付けは数多に在る。
戦後、GHQが謀った日本弱体化工作に因り「天長節」が「天皇誕生日」に変更され、地久節は消されたが、本来ならば今日が日本国民の「母の日」でもある。
テレビでは「皇后まさ子さまの誕生日」という報道が流され、新聞には皇后陛下の感想文が掲載されている。その脇には医師団の見解要旨が記載され、「依然として快復の途上にあり、体調には波がある」との意見が添えられている。
それにしても思うのはマスコミの報道だ。如何にも皇后陛下への親しみ易さを演出しているが、陛下や皇室のことというのは、喩え褒めることであってもそれを軽々に口にすることは不敬である。親しみ易さは、一方では尊厳を薄れさせる。
「皇后陛下」と呼称せずに「皇后さま」とか「雅子さま」との呼ぶことは、「開かれた皇室論」という反天皇運動の実践であり、国民が殆ど知らぬまに、ソ連共産党から日本共産党へ送られた命令書の忠実な遂行を謀ってると言っても過言ではない。
日本人であるならば「皇后陛下」「敬宮愛子内親殿下」「秋篠宮妃殿下(内親王殿下)」「悠仁親王殿下」と称するべきで、こうした敬称略・敬語不使用運動も反天皇運動の一環であり、我が国の伝統文化や美徳が喪失して行くことを自覚すべきだ。
戦前の様に「畏れ多くも畏くも」とは言わないまでも正式な敬称で呼ぶべきで、日本国民として節度ある敬意を表するのは当然のことだ。皇室の御存在は決して開かれるべきものでもなければ、親近感を抱く様な軽々しいものでもない。
我が国は天皇陛下を族長と仰ぐ家族国家であり、この国體は正しく万邦無比である。陛下や皇室のことというのは、喩え、褒めることであってもそれを口にすることは不敬だと思っているし、軍隊経験のあった父親からもそう教わって来た。
右翼の世界に入り、右翼に対して違和感を持ったのは、口では「尊皇」を唱えながら、皇室を軽々しく扱っているのではと思うことが少なくなかった。
例えば「天長節」や正月に行われる一般参賀に、国民服や背広ではなく私服や平服、或いは右翼スタイルの隊服で皇居に赴く右翼人が目立つ。尊び敬うべき陛下に拝謁するのに、ノーネクタイというのは右翼人以前の問題で常識を疑ってしまう。
正月だからか、笑点に出る落語家かと見間違える様な派手な着流し姿で参賀する右翼幹部も見かけるが、着物を着るなら袴を着用するのが日本人としての常識。
SNSでも御真影を軽々しくアップしてるが、皇室に係わる問題は避け、画像のアップも控える様にしている。前科持ちの右翼如きが皇室を語ることは贔屓の引き倒しであり、陛下への尊厳をも穢すことにもなり兼ねないと思っているからだ。
保守や愛国者を自任するのであるならば、天皇とは「神聖にして侵すべからず」に尽きる。親しみを以て画像をアップしたりしているのだろうが、それは「開かれた皇室論」を容認するものであり、歪な愛国心のひけらかしとしか思えない。
右翼陣営や自称・愛国者や保守派が、ネットと雖も気安く御真影や動向などを貼り付けるのは、1932年、ソ連共産党から日本共産党へ出された「コミュンテルンテーゼ(命令書)」である、所謂「天皇制廃止運動」に与するものと自覚せよ。
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cordial8317 at 08:36│Comments(0)
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