2020年02月24日
「支那(シナ)は差別用語だから使用するのはダメ」というが
Facebookの検閲が止まない。「シナ(支那)は差別用語だから使用するのはダメ」という。シナがダメならば「インドシナ半島」や「東シナ海」もダメだわな。そんなこともあってか最近は「支那そば」と言わなくなった。
「支那(China)」とは、最初の統一王朝「秦」に由来している名称で、新井白石が「支那」と翻訳した。岡倉天心の説では「新」に由来しているという。
我が国と中華圏の交流は長い歴史があると思っているが、日中関係が樹立されたのは20世紀に入ってからであり、未だ100年ほどしか経っていない。
607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し対等外交に踏み切ると、後に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らが、645年に「大化の改新」という維新を実現する。
天智2(663)年、唐・新羅連合軍に攻撃された百済は日本に救援を求めると、我が国はこれに応じて出兵した。これが世にいう「白村江の戦い」である。
応援に出た日本軍はこの海戦で大敗を喫し、多くの日本人が捕虜として捕らえられた。我が国はこの敗戦を機に中華圏との正式な外交を絶つこととなった。
約1200年後の明治4(1871)年、「日清修好条規」を結んだ相手は満州人の清朝であった。当時、支那大陸を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、中華圏との正式な外交は「中華民国」の誕生まで待たなければならなかった。
中華人民共和国は、日清戦争での敗戦もあって、我が国にだけは自分達を世界の真ん中にある、「中国」と呼ばせることで、「北京が世界の中心だ」ということを暗に認めさせ、朝貢国に仕立て上げようと躍起になった。
中共から「中国」強要の理不尽な言い掛かりが始まったのは、占領下だった昭和21年6月に遡る。形式上、連合国の一員で戦勝国であった中国共産党は、その力関係を盾に敗戦国である我が国に「中国」と呼ぶことを強要した。
外務省はそれに何ら反論も出来ず従順に受け容れた。そして「外務省次官・局長通達」として、「理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬこと」と言論機関などにこれを強制し、国民に「中国」との呼称を浸透させた。
「中国」という言葉の一番古い意味は「首都」という意味だという。日本でいう「中国」とは、中国銀行なども在る様に中国地方のこと。中共がいう「国民国家」を意味するものではなければ、「世界の中心」という意味でもない。
英語圏では「チャイナ」。フランスは「シーヌ」。イタリアは「チーナ」。ペルシャでは「チーン」。ロシアは「キタイ」。インドでは「シナスタレ」と呼ぶ。
尊皇愛国の書として有名な山鹿素行の「中朝事実」では、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張している。
愚生は常々「中国」と呼ぶのは国際的にも間違いで、「支那」と呼ぶことが正しいと考えていた。だが、「支那」とは中国二千年の歴史のある言葉であり、その国名には浪漫や憧憬を感じる素晴らしい言葉でもある。
「支那」とは、易姓革命で政権や王朝が代わっても、その基底にある自然・民族・文化を意味する名称として使われてきた国名であり、共産党一党独裁の近代国家如きを「支那」と呼ぶには差別どころか分不相応だと感じている。
浪漫が欠落してる共産主義国である「中華人民共和国」や「中国共産党」は、やはり「中共」や欧米に倣い「チャイナ」と呼ぶのが相応しい。
親中派という媚中派らは「日中関係は同文同種」とか「一衣帯水」という認識で「四書五経」のイメージで支那への憧れを膨らませる。国民の多くが疑いもせずに「中国」と呼称しているが、これは敗戦コンプレックスの裏返しでもある。
世界では日本を「ジャパン」と呼び国民もそれを疑わない。ジャパンから「ジャップ」などど差別されたりするのだが、本来は「ニッポン」と呼ぶべきだ。
国際会議やオリンピックなどの国際大会などでは日本は「JAPAN」と表示されるが、日本は「NIPPON」と表記させるべきではなかろうか。

ということで、画像は愚生的ナンバーワンの福島市の「支那そば佐川」の支那そば&半ライス&糠漬け。あ~、食べたくなって来たな(笑)
※ブログへのコメントは返信が面倒なので会員のみにさせて頂いておりますが、コメント入力希望の方やメッセージはmr.cordial@live.jp へ御連絡下さい。
<会費及び御支援>みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ
「支那(China)」とは、最初の統一王朝「秦」に由来している名称で、新井白石が「支那」と翻訳した。岡倉天心の説では「新」に由来しているという。
我が国と中華圏の交流は長い歴史があると思っているが、日中関係が樹立されたのは20世紀に入ってからであり、未だ100年ほどしか経っていない。
607年、聖徳太子は小野妹子を隋に派遣し対等外交に踏み切ると、後に蘇我氏を滅ぼした中大兄皇子らが、645年に「大化の改新」という維新を実現する。
天智2(663)年、唐・新羅連合軍に攻撃された百済は日本に救援を求めると、我が国はこれに応じて出兵した。これが世にいう「白村江の戦い」である。
応援に出た日本軍はこの海戦で大敗を喫し、多くの日本人が捕虜として捕らえられた。我が国はこの敗戦を機に中華圏との正式な外交を絶つこととなった。
約1200年後の明治4(1871)年、「日清修好条規」を結んだ相手は満州人の清朝であった。当時、支那大陸を支配していたが漢民族の国ではなかった為に、中華圏との正式な外交は「中華民国」の誕生まで待たなければならなかった。
中華人民共和国は、日清戦争での敗戦もあって、我が国にだけは自分達を世界の真ん中にある、「中国」と呼ばせることで、「北京が世界の中心だ」ということを暗に認めさせ、朝貢国に仕立て上げようと躍起になった。
中共から「中国」強要の理不尽な言い掛かりが始まったのは、占領下だった昭和21年6月に遡る。形式上、連合国の一員で戦勝国であった中国共産党は、その力関係を盾に敗戦国である我が国に「中国」と呼ぶことを強要した。
外務省はそれに何ら反論も出来ず従順に受け容れた。そして「外務省次官・局長通達」として、「理屈抜きにして先方の嫌がる文字を使わぬこと」と言論機関などにこれを強制し、国民に「中国」との呼称を浸透させた。
「中国」という言葉の一番古い意味は「首都」という意味だという。日本でいう「中国」とは、中国銀行なども在る様に中国地方のこと。中共がいう「国民国家」を意味するものではなければ、「世界の中心」という意味でもない。
英語圏では「チャイナ」。フランスは「シーヌ」。イタリアは「チーナ」。ペルシャでは「チーン」。ロシアは「キタイ」。インドでは「シナスタレ」と呼ぶ。
尊皇愛国の書として有名な山鹿素行の「中朝事実」では、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張している。
愚生は常々「中国」と呼ぶのは国際的にも間違いで、「支那」と呼ぶことが正しいと考えていた。だが、「支那」とは中国二千年の歴史のある言葉であり、その国名には浪漫や憧憬を感じる素晴らしい言葉でもある。
「支那」とは、易姓革命で政権や王朝が代わっても、その基底にある自然・民族・文化を意味する名称として使われてきた国名であり、共産党一党独裁の近代国家如きを「支那」と呼ぶには差別どころか分不相応だと感じている。
浪漫が欠落してる共産主義国である「中華人民共和国」や「中国共産党」は、やはり「中共」や欧米に倣い「チャイナ」と呼ぶのが相応しい。
親中派という媚中派らは「日中関係は同文同種」とか「一衣帯水」という認識で「四書五経」のイメージで支那への憧れを膨らませる。国民の多くが疑いもせずに「中国」と呼称しているが、これは敗戦コンプレックスの裏返しでもある。
世界では日本を「ジャパン」と呼び国民もそれを疑わない。ジャパンから「ジャップ」などど差別されたりするのだが、本来は「ニッポン」と呼ぶべきだ。
国際会議やオリンピックなどの国際大会などでは日本は「JAPAN」と表示されるが、日本は「NIPPON」と表記させるべきではなかろうか。

ということで、画像は愚生的ナンバーワンの福島市の「支那そば佐川」の支那そば&半ライス&糠漬け。あ~、食べたくなって来たな(笑)
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cordial8317 at 07:27│Comments(0)
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