2019年04月30日
平成のよしなしごとをそこはかとなく書き綴ってみる(笑)
平成の御代も今日で終わる。天皇皇后両陛下の思い出といえば、東日本大震災の御見舞いで福島県を幾度となく御行幸遊ばされた。以前、川内村への視察で自宅近くを通るという情報を耳にし、夫婦で奉迎したのを思い出す。
近所の住民も集まり、日の丸の小旗を振って待ってると、警察車両を先導に両陛下の乗るセンチュリーが通り過ぎて行った。そしてその夕方、そろそろ帰ってくるのではと思い薄暗い路地で待ってると車列が来るのが見えた。
帰りは見送る住民も殆どおらす、小旗を振って見送ると皇后陛下が此方に気付くと、陛下に耳打ちされたのか陛下も此方を見てに和かに手を振ってくれた。あの時の何ともいえない感動と嬉しさを決して忘れることはない。
昭和63年9月、活動家としての本分を忘れ遊び惚けていた愚生に「昭和天皇御不例」の報が飛び込んで来た。これではイカン、何かしなければと思い立ち、烏滸がましいことではあるが御快癒を祈り、好きな酒を断つことにした。
翌年1月7日、願い空しく昭和天皇崩御。即日御代が「平成」と改められた。陛下は会見で「日本国憲法の遵守」を宣言し、右翼の活動も大きく変わる気配を感じた。所属していた防共挺身隊の福田進が引退し早坂光夫が総隊長に就いた。
昭和58年の商法改正で活動費の捻出が困難になった本部は各支部を独立させることとなった。所属していた羽田支部は「報国社」に改名し、活動費どころか生活費も儘ならなくなった支部長らは土方の仕事で生活を凌ぐ生活に甘んじた。
愚生も生まれて間もない子供を養う為に建築関係のバイトをしていたが、右翼活動捨て難く、帰郷を決意し、郡山市で大学時代から主宰していた「日本論壇倶楽部」を立ち上げた。活動費は企業を回って支援金を捻出する計画だった。
青雲の志は高く、名刺一枚と領収書を持って会社に乗り込み、社長や役員相手に口角泡を飛ばして天下国家、時局などを熱く語っって協力を促す。
思いの他、支援金は集まるものの計画性に乏しい愚生は頂いたカネをその日にパーッと使い切ってはまた会社に顔を出すという悪循環。
それも長続きせず、結局は簡単に借り入れ出来るサラ金と信販会社巡りがシノギとなり、それも限界になり、間もなくブラックリスト入り(笑)
そうこうしていると本部から連絡が入る。二代目となった早坂総隊長が昔の支部を復帰させ組織を再編成し街宣活動を再開することになった。愚生は街宣などの運動の責任者としてその責を担い毎週上京することとなった。
爾来、毎週木金の新橋駅頭での定例街宣を始めた。交通費などは本部から支給されたので別に苦にはならなかったし、水を得た魚の如く街宣右翼のパイオニアとしての昔の活動に回帰し、街頭演説と都内一円にビラ貼りなども敢行した。
昔は、ビラ貼りも捕まっても3000円程の過料。最高裁でビラ貼りが右翼団体の表現の自由の一つという判例が示されると、警察は軽犯罪法ではなく屋外広告物条例を適用な。逮捕されると罰金が数万円となる為にビラ貼りも困難となった。
こうしたことでも、今や日本国憲法というのは国の最高法規どころか法令や条例以下の代物だということが分かるだろう(苦笑)
総会屋右翼時代に商法改正されて特殊株主の優遇を受けられなくなるも、団体が発行する冊子やミニコミ誌などが活動費に充てられた。だが、商法改正と同じく暴力団排除などを理由に僅かな購読料の収入さえも無くなってしまう。
活動資金が絶えたのを機に早坂光夫総隊長が引退し、對馬則政を総隊長に指名した。幹部の半数が早坂引退を機に独立し袂を分かち、早坂は防共挺身隊元大阪支部長だった兄弟分の誘いもあって大阪の広域暴力団の盃を受けるも後に破門。
三代目総隊長となった對馬は、活動費を会費制にして組織の存続を図った。運動面は今まで通り愚生が担い、他団体やヤクザ関係の義理事は對馬が担った。
「早坂より1年だけ長く総隊長をやったら佐久間へ渡す」という約束もあり、上京する新幹線代や食費交際費などが嵩むも苦にはならなかった。家の家賃は滞納しつつも上納金と若手活動家の育成や活動費などの捻出をどうにか遣り繰りした。
そんな中で、對馬が大阪に本部を置く広域暴力団幹部と縁を持つ。この頃から雲行きが怪しくなる。幹部が内部抗争が勃発し処分されると直ぐに、元幹部は名古屋の某総長と對馬の縁組を果たすと「三代目防共挺身隊」と名称を改めた。
間もなく四代目総隊長に愚生を指名するも、20人程いた隊員の3分の1が對馬と共に家業入り、残った10数名の半数が引退、数名での再結成となった。
だが、袂を分かったにも関わらず定例会に對馬も元隊員らも同席し、名古屋との縁を持つ様に強いる。更には名古屋本家への定期連絡を強要。
当時覚えた渓流釣りで山に入るので前日にその旨を連絡した。すると山から下りた翌日の昼、元隊員から連絡があり「オヤジと代わります」となった。
對馬からいきなり「なんだお前、定期連絡も入れないで」と強い口調で詰られる。「昨日、釣りで山に入ると連絡してますが」「何~コラッ、お前、総隊長と釣りとどっちが大事なんだ」と来たから「釣りです」と答えた(笑)
「おい、弘道会、なめてるのか、追い込みかけるぞ」とエライ剣幕で捲し立てられた。周りに誰かいたのだろう、今までとは違う雰囲気に戸惑う。
国士舘時代からの付き合いで、先輩後輩、兄舎弟、親子関係でもあった對馬の口調に興覚め。嫌気が差して「ああそうですか、別になめてはいないが来るなら受けて立ちます」と電話を切った。それが對馬との最後の会話になった。
その後、對馬は地元郡山のヤクザに「佐久間を復帰させて貰えませんか?」と相談したらしく、そのヤクザから呼び出され、寿司屋でその経緯を聞くも「申し訳ないがヤクザの傘下になってまで右翼をやるつもりはない」と断った。
「だらしない右翼の世界にどっぷり漬かった者がヤクザになれるとも思えないし、況してやシノギなんて簡単なもんじゃないでしょ(笑)」。對馬は、C型肝炎から肝臓癌を併発、愚生との遣り取りの半年後、多臓器不全で幽冥境を異にした。
右翼活動家として恥じることは一切無いが、現在のSNSや新聞投稿での啓蒙活動に隔靴掻痒の感は拭えない。令和の御代となり、願わくは維新回天の動乱の際にはその末席に名を連ね、逆賊ら諸共に自爆したいと思っている。呵々大笑。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
近所の住民も集まり、日の丸の小旗を振って待ってると、警察車両を先導に両陛下の乗るセンチュリーが通り過ぎて行った。そしてその夕方、そろそろ帰ってくるのではと思い薄暗い路地で待ってると車列が来るのが見えた。
帰りは見送る住民も殆どおらす、小旗を振って見送ると皇后陛下が此方に気付くと、陛下に耳打ちされたのか陛下も此方を見てに和かに手を振ってくれた。あの時の何ともいえない感動と嬉しさを決して忘れることはない。
昭和63年9月、活動家としての本分を忘れ遊び惚けていた愚生に「昭和天皇御不例」の報が飛び込んで来た。これではイカン、何かしなければと思い立ち、烏滸がましいことではあるが御快癒を祈り、好きな酒を断つことにした。
翌年1月7日、願い空しく昭和天皇崩御。即日御代が「平成」と改められた。陛下は会見で「日本国憲法の遵守」を宣言し、右翼の活動も大きく変わる気配を感じた。所属していた防共挺身隊の福田進が引退し早坂光夫が総隊長に就いた。
昭和58年の商法改正で活動費の捻出が困難になった本部は各支部を独立させることとなった。所属していた羽田支部は「報国社」に改名し、活動費どころか生活費も儘ならなくなった支部長らは土方の仕事で生活を凌ぐ生活に甘んじた。
愚生も生まれて間もない子供を養う為に建築関係のバイトをしていたが、右翼活動捨て難く、帰郷を決意し、郡山市で大学時代から主宰していた「日本論壇倶楽部」を立ち上げた。活動費は企業を回って支援金を捻出する計画だった。
青雲の志は高く、名刺一枚と領収書を持って会社に乗り込み、社長や役員相手に口角泡を飛ばして天下国家、時局などを熱く語っって協力を促す。
思いの他、支援金は集まるものの計画性に乏しい愚生は頂いたカネをその日にパーッと使い切ってはまた会社に顔を出すという悪循環。
それも長続きせず、結局は簡単に借り入れ出来るサラ金と信販会社巡りがシノギとなり、それも限界になり、間もなくブラックリスト入り(笑)
そうこうしていると本部から連絡が入る。二代目となった早坂総隊長が昔の支部を復帰させ組織を再編成し街宣活動を再開することになった。愚生は街宣などの運動の責任者としてその責を担い毎週上京することとなった。
爾来、毎週木金の新橋駅頭での定例街宣を始めた。交通費などは本部から支給されたので別に苦にはならなかったし、水を得た魚の如く街宣右翼のパイオニアとしての昔の活動に回帰し、街頭演説と都内一円にビラ貼りなども敢行した。
昔は、ビラ貼りも捕まっても3000円程の過料。最高裁でビラ貼りが右翼団体の表現の自由の一つという判例が示されると、警察は軽犯罪法ではなく屋外広告物条例を適用な。逮捕されると罰金が数万円となる為にビラ貼りも困難となった。
こうしたことでも、今や日本国憲法というのは国の最高法規どころか法令や条例以下の代物だということが分かるだろう(苦笑)
総会屋右翼時代に商法改正されて特殊株主の優遇を受けられなくなるも、団体が発行する冊子やミニコミ誌などが活動費に充てられた。だが、商法改正と同じく暴力団排除などを理由に僅かな購読料の収入さえも無くなってしまう。
活動資金が絶えたのを機に早坂光夫総隊長が引退し、對馬則政を総隊長に指名した。幹部の半数が早坂引退を機に独立し袂を分かち、早坂は防共挺身隊元大阪支部長だった兄弟分の誘いもあって大阪の広域暴力団の盃を受けるも後に破門。
三代目総隊長となった對馬は、活動費を会費制にして組織の存続を図った。運動面は今まで通り愚生が担い、他団体やヤクザ関係の義理事は對馬が担った。
「早坂より1年だけ長く総隊長をやったら佐久間へ渡す」という約束もあり、上京する新幹線代や食費交際費などが嵩むも苦にはならなかった。家の家賃は滞納しつつも上納金と若手活動家の育成や活動費などの捻出をどうにか遣り繰りした。
そんな中で、對馬が大阪に本部を置く広域暴力団幹部と縁を持つ。この頃から雲行きが怪しくなる。幹部が内部抗争が勃発し処分されると直ぐに、元幹部は名古屋の某総長と對馬の縁組を果たすと「三代目防共挺身隊」と名称を改めた。
間もなく四代目総隊長に愚生を指名するも、20人程いた隊員の3分の1が對馬と共に家業入り、残った10数名の半数が引退、数名での再結成となった。
だが、袂を分かったにも関わらず定例会に對馬も元隊員らも同席し、名古屋との縁を持つ様に強いる。更には名古屋本家への定期連絡を強要。
当時覚えた渓流釣りで山に入るので前日にその旨を連絡した。すると山から下りた翌日の昼、元隊員から連絡があり「オヤジと代わります」となった。
對馬からいきなり「なんだお前、定期連絡も入れないで」と強い口調で詰られる。「昨日、釣りで山に入ると連絡してますが」「何~コラッ、お前、総隊長と釣りとどっちが大事なんだ」と来たから「釣りです」と答えた(笑)
「おい、弘道会、なめてるのか、追い込みかけるぞ」とエライ剣幕で捲し立てられた。周りに誰かいたのだろう、今までとは違う雰囲気に戸惑う。
国士舘時代からの付き合いで、先輩後輩、兄舎弟、親子関係でもあった對馬の口調に興覚め。嫌気が差して「ああそうですか、別になめてはいないが来るなら受けて立ちます」と電話を切った。それが對馬との最後の会話になった。
その後、對馬は地元郡山のヤクザに「佐久間を復帰させて貰えませんか?」と相談したらしく、そのヤクザから呼び出され、寿司屋でその経緯を聞くも「申し訳ないがヤクザの傘下になってまで右翼をやるつもりはない」と断った。
「だらしない右翼の世界にどっぷり漬かった者がヤクザになれるとも思えないし、況してやシノギなんて簡単なもんじゃないでしょ(笑)」。對馬は、C型肝炎から肝臓癌を併発、愚生との遣り取りの半年後、多臓器不全で幽冥境を異にした。
右翼活動家として恥じることは一切無いが、現在のSNSや新聞投稿での啓蒙活動に隔靴掻痒の感は拭えない。令和の御代となり、願わくは維新回天の動乱の際にはその末席に名を連ね、逆賊ら諸共に自爆したいと思っている。呵々大笑。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
cordial8317 at 07:21│Comments(0)
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