時代が運命を見放した戦国武将・伊達政宗の処世術に学ぶ我が国を取り巻く諸問題は「日本人であることを見失った」ことに起因している

2023年02月26日

昭和11年2月26日、青年将校らは「尊皇討奸」を掲げ決起した!

 昭和11年2月26日、安藤輝三、野中四郎、香田清貞、栗原安秀、中橋基明、丹生誠忠、磯部浅一、村中孝次ら青年将校は、「尊皇討奸」を掲げ、第1師団歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛師団の歩兵第3連隊など総勢1483名を率いて決起した。

「君側の奸」「昭和維新」との幟の惹句を見れば、如何に憂国の至情から出でる行動だったかが窺い知れる。「皇道派」といわれた彼らのその行動の柱となったのが、国家社会主義者・北一輝の「日本改造法案大綱」であるが、この2・26事件の伏線になったものが、前年の8月に起きた「相沢事件」と言われている。

「相沢事件」とは、昭和10年8月12日、陸軍中佐の相沢三郎が陸軍省内で軍務局長・永田鉄山を刺殺した事件である。相沢三郎は福島県白河町(現白河市)生まれ。

 大正7年、歩兵第4連隊から台湾歩兵第1連隊付に移り大尉に進級、同年9月陸軍戸山学校教官に就任する。その後、陸軍士官学校付、歩兵第13連隊中隊長を経て、昭和2年少佐進級と共に歩兵第1連隊付として日本体育会体操学校(後の日本体育大学)に配属され学校教練を担当した。剣の達人としても知られる人物でもある。

 昭和8年陸軍中佐に昇格すると、昭和10年に永田軍務局長を刺殺に至った。翌年、軍法会議に於いて死刑判決が下され、代々木衛戍刑務所内で銃殺刑に処される。

 陸軍内は当時、高度国防国家を目指す「統制派」と、天皇親政を理想とする「皇道派」の対立が激化していた。皇道派の相沢は、同派の教育総監・真崎甚三郎が更迭されたことを理由に統制派の中心人物だった永田の刺殺に至るのだった。

 相沢事件の半年後、2・26事件が決行されたことをしても、皇道派だった相沢三郎の事件が2・26事件の伏線になったということは紛れもない事実だろう。

 我が国の歴史には、「大化の改新」「建武の中興(新政)」「明治維新」の三つの革新は、陋習を打ち破らんと天皇親政を目指し維新の大業が成し遂げられた。

「維新」とは、幕末の思想家・藤田東湖が示した「大義を明にし、人心を正さば、皇道奚(いずく)んぞ興起せざるを憂えん」こそが神髄である。彼らは「反乱軍」と断じられ、処刑されたが、維新の大義と憂国の至情は決して消えることはない。

 2・26事件に、「群衆指揮等」で有罪となり死刑に処せられた渋川善助という思想家がいる。渋川もまた相沢と同じ福島県人である。事件に参画していない民間人が何故に死刑に処せられたのか。善助の扇動を警察が殊更に恐れたからだろう。

 善助は、福島県会津若松市七日町出身。会津中学校、仙台陸軍地方幼年学校を経て陸軍士官学校予科に進み、摂政殿下であった裕仁親王(昭和天皇)に御前講演を行うほど成績優秀であった。だが、士官学校卒業直前に退校処分となる。

 その後、明治大学専門部を経て明治大学政治経済学部に入学した善助は、錦旗会、興亜学塾、敬天塾、皇道維新連盟などの民間愛国団体と関わり、国家革新運動にのめり込んで行く。大学を中退した善助は、皇道維新塾の塾長となった。

 杉田省吾、西田税らと「維新同志会」を結成して、国家主義運動に参画。2・26事件に参画した将校らは、中央と地方の貧富が露わになり、貧農の娘が身を売らざるを得ない状況を憂いて惹起した一面もあったことを忘れてはならない。 

 善助が少年時代に過ごした部屋は、三島由紀夫が会津を訪れた際に訪問し、「憂国の間」と名付けられ、会津若松市の「渋川問屋」内に現在でも保存されている。

 渋川問屋は郷土料理が自慢の料理旅館である。愚生も県内に住んでいながら未だ訪れたことは無い。いつの日か酒好きの夕刻の志士らと宿泊し、会津料理と地酒を呷り乍ら談論風発、杯盤狼籍、大破轟沈するのが細やかな夢でもある。呵々。

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cordial8317 at 06:35│Comments(0)

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