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2018年12月14日

時に元禄15年12月14日といえばやっぱり「忠臣蔵」でしょ(笑)

 年末というか12月になると、昔は「忠臣蔵」「赤穂浪士」が定番で、必ずといって好いほどテレビでは放映されていたが、「暴力である仇討ちを美化するのは怪しからん」とばかり、年末の恒例番組が消えたのはチョッと寂しい気もする。

 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日だが、実際には旧暦の元禄16年1月30日だったらしい。月の満ち欠けは29.5日周期で、1日が新月だから14~15は満月の夜、30日だとすると新月に近く薄暗かったのではなかろうか。だが、旧暦の元禄15年は閏年。つまり1年が13ヶ月あった年だから話がややこしい(笑)

 赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下生まれで「山鹿流軍学の祖」として知られる山鹿素行(やまがそこう)。江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人物であり、素行の談話を筆記した「山鹿語類」は日本人必読の著である。

 素行の著した「中朝事実」では、儒教や陽明学に見られる世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に、「日本こそ万国に卓越した中華・中国と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張した人物でもある。

 江戸時代267年の歴史の中で、理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、赤穂藩四十七士だけが「義士」と呼ばれ、「武士道の華」と評価されたのは、素行の「正義の遂行」の本義に基付く教えが在ったからだと言っても好いだろう。

  一方で、忠臣蔵の討ち入りに「大義」はなく、「子孫の将来まで考えて討ち入った」単なる「打算」だと断じる歴史家や批評家がいる。「大石内蔵助は忠義心によって討ち入らなければ大石家は山科で帰農し、埋もれただろうが、吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられた」との論評もある。

「葉隠」でも、「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度というべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」という行もある。

  葉隠れでは、仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、「武士とは即刻、やられたらやり返すというのが本道で、事の成否は問題ではなく、成否よりも行為自体に意味が在る」と訓えている。その上で赤穂の武士を「上方の人間は小利口だから世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 赤穂浪士の討ち入りを打算的と見るか否かは夫々で、犠牲を超えた行為に何かを感じれば好いことだ。余談だが、福島から米沢へ向かう峠(旧板谷峠)に、赤穂藩の次席家老・大野九郎兵衛ら16名の供養塔がひっそりと佇んでいる。

 この場所は、「泉岳寺での討ち入りに失敗した場合に、吉良は倅である米沢藩主を頼り北上するだろう」と考えて、この峠に身を潜めその機を待っていた。だが、四十七士の本懐の報を受け、大野ら16名はこの地で自刃したという。四十七士だけではなくこうした義士が居たことを忘れてはならない。南無阿弥陀仏。

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cordial8317 at 06:22│Comments(0)

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