2023年09月24日
戊辰の役後の明治新政府を称える歴史が徐々に暴かれつつある
歴史というのは、往々にして時の権力の都合の好い歴史に書き換えられる。戊辰の役から150年以上が経つが、明治新政府を称える歴史が徐々に暴かれつつある。
歴史に「もし」は無いが、勝海舟が西郷隆盛と江戸城で会談し、無血開城を以て実質的な維新が成立した訳であるから、もし、あの時に全てを諒としてする訳には参らなかったのか。その後の盗賊の如き東軍征伐に何の意味があったのだろう。
徳川幕府で唯一の神道を重んじ、孝明天皇を御守した会津藩が、新政府軍から何故に「朝敵」として責められなければなかったのか。単に蛤御門の変(禁門の変)での敗戦の遺恨であり、とても尊王攘夷という大義ある維新だったとは思えない。
盗賊の如き「官軍」どもに因る明治維新の裏側を垣間見る史料が公開されている。史料には、戊辰の役で二本松城が落城した直後、西軍は二本松藩の名主であった菊池家から同家相伝の名刀や三百両を奪った状況が克明に記されているという。
三百両は現在の価値で3900万円相当になる。東北の片田舎の名家でそれほどなのだから、この地に来るまでどれほどの強奪を謀ったのか想像するに難い。会津戦争や二本松城落城後も西軍の勢いは留まらず各地での凶行は留まることを知らず。
「尊皇攘夷」を訴え、錦の御旗を掲げているが、要は「尊皇」を振り翳した盗賊・凶賊の類で、長州や薩摩、土佐、肥後などの各地から集まった連中が、攻め入った藩や大店などに押し入り、強奪などを働いたことは歴史資料でも明らかになっている。
武士道とは程遠い輩が、「尊皇」という当時の流行に便乗して私服を肥やし、上司もまたそれらの上前を撥ね贅沢三昧し放題。明治維新後の新政府共が別荘を建て贅沢な暮らしが出来たのも、戊辰の役で奪ったこうした金が使われたのだろう。
明治新政府の歴歴方が高給だったことをしても、明治維新とは「尊皇攘夷」を騙った薩長閥の一部特権階級の為の利権独占が目的だったのではあるまいか。内村鑑三は自著「代表的日本人」の中で、西郷隆盛についてこう述べている箇所がある。
「西郷ほど生活上の欲望が無かった人は他にいなかったように思えます。月収が数百万円であった頃、必要とする分は15円で足り、残りは困っている友人に分け与えられました。普段着は薩摩絣で木綿帯、履き物は下駄で過ごした・・・」
西郷の質素な生活ぶりは窺い知れるが、あの当時の月収が「数百万円」あったというのとは驚く他はない。新政権樹立後、参議とはいえ何の役にも就かなかった者に月々数百万円とは如何なものか。その数百万の円手当の出所は一体何処なのか。
前述した様に、東軍征伐の過程で新政府軍は各藩に対し、恭順させる証しとして上納させ蓄えてた金や、地元の名主や大店から強奪した金ではなかったのか。
斯くも執拗に徳川幕府や会津藩を責め立てた西郷だったが、その後、自らの信念であった「征韓論」で大久保利通らと対立し、薩摩へ帰郷することとなった。
「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など士族の反乱が続く中で、明治10年には、西郷が主宰する私学校生徒の暴動から「西南戦争」が勃発する。
西郷は指導者に担がれ、各地に於いて指揮するも、政府軍に敗れて薩摩城山(鹿児島城)で自刃した。会津戦争が終結から10年後の明治10年9月24日のことである。
会津藩や日本軍を見るまでもなく、歴史というのは正義が常に正義ではなく、正義が敗れることもあるという一例だろう。「勝てば官軍・負ければ賊軍」と騙り、勝利に酔った西郷が賊軍に落ちた瞬間である。歴史とは実に異なものである。
我が国の戦後体制の諸矛盾と不条理の元凶は、戦後の「ヤルタポツダム体制」は然ること乍ら、西郷隆盛や勝海舟ら士風を損ねた幕閣と、大義無き尊皇攘夷を謀った長州閥の明治新政府に在る。幕末から明治に至る歴史と正義を公正に検証せよ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員30000円~。
歴史に「もし」は無いが、勝海舟が西郷隆盛と江戸城で会談し、無血開城を以て実質的な維新が成立した訳であるから、もし、あの時に全てを諒としてする訳には参らなかったのか。その後の盗賊の如き東軍征伐に何の意味があったのだろう。
徳川幕府で唯一の神道を重んじ、孝明天皇を御守した会津藩が、新政府軍から何故に「朝敵」として責められなければなかったのか。単に蛤御門の変(禁門の変)での敗戦の遺恨であり、とても尊王攘夷という大義ある維新だったとは思えない。
盗賊の如き「官軍」どもに因る明治維新の裏側を垣間見る史料が公開されている。史料には、戊辰の役で二本松城が落城した直後、西軍は二本松藩の名主であった菊池家から同家相伝の名刀や三百両を奪った状況が克明に記されているという。
三百両は現在の価値で3900万円相当になる。東北の片田舎の名家でそれほどなのだから、この地に来るまでどれほどの強奪を謀ったのか想像するに難い。会津戦争や二本松城落城後も西軍の勢いは留まらず各地での凶行は留まることを知らず。
「尊皇攘夷」を訴え、錦の御旗を掲げているが、要は「尊皇」を振り翳した盗賊・凶賊の類で、長州や薩摩、土佐、肥後などの各地から集まった連中が、攻め入った藩や大店などに押し入り、強奪などを働いたことは歴史資料でも明らかになっている。
武士道とは程遠い輩が、「尊皇」という当時の流行に便乗して私服を肥やし、上司もまたそれらの上前を撥ね贅沢三昧し放題。明治維新後の新政府共が別荘を建て贅沢な暮らしが出来たのも、戊辰の役で奪ったこうした金が使われたのだろう。
明治新政府の歴歴方が高給だったことをしても、明治維新とは「尊皇攘夷」を騙った薩長閥の一部特権階級の為の利権独占が目的だったのではあるまいか。内村鑑三は自著「代表的日本人」の中で、西郷隆盛についてこう述べている箇所がある。
「西郷ほど生活上の欲望が無かった人は他にいなかったように思えます。月収が数百万円であった頃、必要とする分は15円で足り、残りは困っている友人に分け与えられました。普段着は薩摩絣で木綿帯、履き物は下駄で過ごした・・・」
西郷の質素な生活ぶりは窺い知れるが、あの当時の月収が「数百万円」あったというのとは驚く他はない。新政権樹立後、参議とはいえ何の役にも就かなかった者に月々数百万円とは如何なものか。その数百万の円手当の出所は一体何処なのか。
前述した様に、東軍征伐の過程で新政府軍は各藩に対し、恭順させる証しとして上納させ蓄えてた金や、地元の名主や大店から強奪した金ではなかったのか。
斯くも執拗に徳川幕府や会津藩を責め立てた西郷だったが、その後、自らの信念であった「征韓論」で大久保利通らと対立し、薩摩へ帰郷することとなった。
「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など士族の反乱が続く中で、明治10年には、西郷が主宰する私学校生徒の暴動から「西南戦争」が勃発する。
西郷は指導者に担がれ、各地に於いて指揮するも、政府軍に敗れて薩摩城山(鹿児島城)で自刃した。会津戦争が終結から10年後の明治10年9月24日のことである。
会津藩や日本軍を見るまでもなく、歴史というのは正義が常に正義ではなく、正義が敗れることもあるという一例だろう。「勝てば官軍・負ければ賊軍」と騙り、勝利に酔った西郷が賊軍に落ちた瞬間である。歴史とは実に異なものである。
我が国の戦後体制の諸矛盾と不条理の元凶は、戦後の「ヤルタポツダム体制」は然ること乍ら、西郷隆盛や勝海舟ら士風を損ねた幕閣と、大義無き尊皇攘夷を謀った長州閥の明治新政府に在る。幕末から明治に至る歴史と正義を公正に検証せよ。
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cordial8317 at 05:05│Comments(0)
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