2024年07月28日
「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず」(二本松藩家老・丹羽一学)
戊辰戦争は西軍と東軍の戦いであり、決して「官軍」と「賊軍」が戦った訳ではない。「賊軍」や「逆賊」の汚名を雪がねばならない。会津武士道の昇華を白虎隊に例えるのなら、二本松少年隊は正しく二本松武士道の昇華そのものだろう。
慶応4(1868)年、西軍の会津征伐に於いて二本松藩の家老・丹羽一学は「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず。二本松は城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め上げた。
同年7月27日、木村銃太郎隊長(22)に率いられた少年隊士23名が蹶起する。会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳だった。少年隊は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。
7月29日午前9時頃、少年隊は隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた大砲によって、終に戦史に残る激戦が開始される。だが、奮闘空しくその日のうちに落城してしまう。これを以て「二本松藩との戦いは易易だった」と罵詈を浴びせる歴史家もいるが、事実はそんな簡単なものではない。
「竹薮に一弾入るや、竹幹に当りて所謂外れ丸となりカラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て危険更に増さりぬ、余鉄砲を取直して打たんとすればこは如何に先に竹薮に駆け入りし時敵弾に引金を打貫かれて用をなさず、如何はせんとためらふ不図見付けたるは、砲車の側は横はれる一大木材なり、一抱えもありて長さは四五間に余れり。是れ屈竟の物なりと直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いざ戦況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云ふ声あり」(二本松少年隊記より)
圧倒的な武力を前に「東北列藩の信を以て滅びよう」と義を貫いた。当時、西軍隊長だった板垣退助も「一藩挙って身命を擲(なげう)ち、斃れて後已むまで戦い抜く、武士道の精髄を尽くしたのは二本松を以て最上とする」と讃えている。
幕末の薩摩藩士で陸軍元帥の野津道貫は、回顧談で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と語っている。(近世国民史)
「おまけに射撃は頗る正確で・・・」というのは、スペンサー(元締め)銃を手に奮闘した二本松少年隊の小澤幾弥のことだろう。幾弥この時、弱冠17歳。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
二本松の戦いでは、阿武隈川を超え霞ヶ城(二本松城)に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒すも、「最早これまで」と砲術師範の朝河八太夫と討ち死にする。八太夫は、平和主義者などと持て囃されている朝河貫一博士の祖父である。
二本松藩には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。その理由は、浅野内匠頭が江戸城内での一件を聞いた二本松藩初代藩主・丹羽光重が、「何故、浅野公は斬り付けたのか。斬り付けずに突けば好かったものを」と、酷く悔しがったという由来から、以来「斬らずに突け」が伝統となった。
少年隊士・成田才次郎が、出陣の際に父から厳しく訓えられたのも「斬らずに突け」の刀法だった。大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまったが、才次郎は単独で行動し二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
才次郎は「必ず敵将を斃してやる」との思いで、一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かな武士が一隊を率いてやってくるのが見えた。長州藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付る。
「此処ぞ」と才次郎は大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。然し、歴戦の長州兵はこの遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。白井は「子供じゃ、手を出すでない」と声を掛ける。
白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。だが、それが徒となり、才次郎の剣は狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。
白井、堪らず馬上から崩れ落ちた。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ない。已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来たという。この時、才次郎は若干14歳。
現在、長州藩士・白井小四郎の墓が市内の真行寺に残っている。維新後の明治3年には、長州藩から香華料として金二両が納められた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの将の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えない。
西軍が城に迫ると、大城代・内藤四郎兵衛は「我は城の主将たり、虚しく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出る。敵軍との奮戦激闘の中、見事な最期を遂げた。四郎兵衛の最期、潔さは、二本松藩士の鑑と称されている。
二本松藩軍事奉行の丹羽和左衛門は床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたという。正に鬼神となりし。
「三春に倣うべからず」と徹底抗戦を唱えた家老・丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎と城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げた。「風に散る 露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末」との辞世が、心に響く。
少年隊を始め、多くの二本松藩士や先人らは藩と己の名誉を守る為に堂々と戦い、そして潔く散った。断じて「賊軍」や「逆賊」ではない。こうした純真無垢な殉国精神は、大東亜戦争で散華した特攻隊の英霊の精神と通ずるものが在るだろう。
祖国を守る為に尊い命を捧げた特攻精神は、祖国愛の極致であり、大東亜戦争が自存の為の防衛戦争であったことの証である。人生はどれだけ生きたかではなく、どう生きたかであり、特攻隊員や二本松少年隊の覇気に学ぶものは多い。
山河麗しい二本松に生まれ育った者として、また二本松剣友会の末席を汚した者として、二本松少年隊や先人の生き様に感謝せずにはいられない。合掌再拝。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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慶応4(1868)年、西軍の会津征伐に於いて二本松藩の家老・丹羽一学は「敗戦は必定なれど三春に倣うべからず。二本松は城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め上げた。
同年7月27日、木村銃太郎隊長(22)に率いられた少年隊士23名が蹶起する。会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳だった。少年隊は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。
7月29日午前9時頃、少年隊は隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた大砲によって、終に戦史に残る激戦が開始される。だが、奮闘空しくその日のうちに落城してしまう。これを以て「二本松藩との戦いは易易だった」と罵詈を浴びせる歴史家もいるが、事実はそんな簡単なものではない。
「竹薮に一弾入るや、竹幹に当りて所謂外れ丸となりカラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て危険更に増さりぬ、余鉄砲を取直して打たんとすればこは如何に先に竹薮に駆け入りし時敵弾に引金を打貫かれて用をなさず、如何はせんとためらふ不図見付けたるは、砲車の側は横はれる一大木材なり、一抱えもありて長さは四五間に余れり。是れ屈竟の物なりと直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いざ戦況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云ふ声あり」(二本松少年隊記より)
圧倒的な武力を前に「東北列藩の信を以て滅びよう」と義を貫いた。当時、西軍隊長だった板垣退助も「一藩挙って身命を擲(なげう)ち、斃れて後已むまで戦い抜く、武士道の精髄を尽くしたのは二本松を以て最上とする」と讃えている。
幕末の薩摩藩士で陸軍元帥の野津道貫は、回顧談で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と語っている。(近世国民史)
「おまけに射撃は頗る正確で・・・」というのは、スペンサー(元締め)銃を手に奮闘した二本松少年隊の小澤幾弥のことだろう。幾弥この時、弱冠17歳。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
二本松の戦いでは、阿武隈川を超え霞ヶ城(二本松城)に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒すも、「最早これまで」と砲術師範の朝河八太夫と討ち死にする。八太夫は、平和主義者などと持て囃されている朝河貫一博士の祖父である。
二本松藩には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。その理由は、浅野内匠頭が江戸城内での一件を聞いた二本松藩初代藩主・丹羽光重が、「何故、浅野公は斬り付けたのか。斬り付けずに突けば好かったものを」と、酷く悔しがったという由来から、以来「斬らずに突け」が伝統となった。
少年隊士・成田才次郎が、出陣の際に父から厳しく訓えられたのも「斬らずに突け」の刀法だった。大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまったが、才次郎は単独で行動し二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
才次郎は「必ず敵将を斃してやる」との思いで、一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かな武士が一隊を率いてやってくるのが見えた。長州藩士・白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付る。
「此処ぞ」と才次郎は大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。然し、歴戦の長州兵はこの遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。白井は「子供じゃ、手を出すでない」と声を掛ける。
白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き、兵を制した。だが、それが徒となり、才次郎の剣は狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。
白井、堪らず馬上から崩れ落ちた。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ない。已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来たという。この時、才次郎は若干14歳。
現在、長州藩士・白井小四郎の墓が市内の真行寺に残っている。維新後の明治3年には、長州藩から香華料として金二両が納められた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの将の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えない。
西軍が城に迫ると、大城代・内藤四郎兵衛は「我は城の主将たり、虚しく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出る。敵軍との奮戦激闘の中、見事な最期を遂げた。四郎兵衛の最期、潔さは、二本松藩士の鑑と称されている。
二本松藩軍事奉行の丹羽和左衛門は床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたという。正に鬼神となりし。
「三春に倣うべからず」と徹底抗戦を唱えた家老・丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎と城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げた。「風に散る 露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末」との辞世が、心に響く。
少年隊を始め、多くの二本松藩士や先人らは藩と己の名誉を守る為に堂々と戦い、そして潔く散った。断じて「賊軍」や「逆賊」ではない。こうした純真無垢な殉国精神は、大東亜戦争で散華した特攻隊の英霊の精神と通ずるものが在るだろう。
祖国を守る為に尊い命を捧げた特攻精神は、祖国愛の極致であり、大東亜戦争が自存の為の防衛戦争であったことの証である。人生はどれだけ生きたかではなく、どう生きたかであり、特攻隊員や二本松少年隊の覇気に学ぶものは多い。
山河麗しい二本松に生まれ育った者として、また二本松剣友会の末席を汚した者として、二本松少年隊や先人の生き様に感謝せずにはいられない。合掌再拝。
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cordial8317 at 05:19│Comments(0)
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