奉祝・紀元節。国を愛する心の涵養とは「敷島の大和心を人問わば朝日に匂う山桜花」これに極まれり池田太作の地元紙への投稿記事に反創価学会の愚生でさえ感心したのだから信者は感涙に咽び泣いたに違いない(笑)

2023年02月13日

明治時代の「安積疏水事業」とは大久保利通の夢だったのだろうか

 郡山市では、2月13日が「日本遺産の日」ということで、日本遺産に認定されている安積疎水の「一本の水路」のストーリーを構成する、猪苗代湖や開成山公園、安積歴史博物館など、38もの構成文化財の写真をInstagramを活用し募集している。

 日本遺産ポータルサイトには、「明治維新後、武士の救済と、新産業による近代化を進めるため、安積地方の開拓に並々ならぬ想いを抱いていた大久保利通。夢半ばで倒れた彼の想いは、郡山から西の天空にある猪苗代湖より水を引く『安積開拓・安積疏水開さく事業』で実現したと、大久保利通の偉業として称えている。

 数年前、地元紙の投稿欄に安積国造神社の安藤智重宮司の記事が載った。「安積疏水事業 大久保の夢?」と、疑問符が入っていることでも分かるが、郡山市が取り組んでいる「日本遺産・安積疏水」への疑問であり、一石を投じた内容だった。

 愚生も、郡山市の安積疎水事業のパンフレットを見て大久保利通ばかりを持ち上げ、疎水事業を提案した渡邊閑哉が全く出ていない内容に疑問を抱いていた。

 中国の故事の「飲水思源」や「井戸を掘った人を忘れるな」との諺がある。毛沢東を称える言葉ではあるが、安積疏水という井戸を掘ったのは大久保利通ではなく、安積原野の開拓には猪苗代湖からの水を引き入れることを提案した人達である。

 安藤宮司の投稿では「疎水の夢を実際に描いたのは渡邊閑哉(岩代)と小林久敬(須賀川)である」と述べているが、安積疏水事業は大久保の夢ではない。

 投稿記事に拠れば、「当時の国家予算は7000万円で疎水事業の予算は62万円」。これが事実であれば「国家予算の三分の一を要した大事業」というのは嘘ということになる。況してや、事業予算も10年返済の起業公債だったというではないか。

 大久保は「士族授産と殖産興業を結び付けた開拓事業を安積原野で展開することで、この地の発展に国の未来を見ていた」という。だが、目指したものは「殖産興業」を実現させた上での「富国強兵」であり、安積原野開拓は魁となった。

 明治11年、大久保は不平士族6名に因って暗殺される。斬奸状には、「不要な土木事業・建築に拠り、国費を無駄使いしている」という理由が綴られていた。

 明治11年に着工された安積疏水事業は、大久保暗殺犯が語った「国費の無駄」とは思わないが、大久保の身から出た錆である。疎水事業を提案した渡邊閑哉(義右衛門)は二本松藩の思想家。旧岩代町(現二本松市)は、愚生の故郷である。

 藩内の布沢村や鈴石村の名主(村長)に就くと、荒地には馬鈴薯を作らせ、川には竹(かんさい竹)を植えさせ洪水を防ぐなどして開墾を勧め、村を立て直した。

 因みに、今でも二本松界隈ではジャガイモのことを「かんぷら(かんさい)イモ」と呼ぶが、こうした呼び名でも如何に閑哉が親しまれていたことがよく分かる。

 閑哉の偉業は、村の財政立て直しや安積疎水だけではなく多岐に及ぶ。伊勢、京都、奈良、四国、九州を遍歴している。国学を重んじ、歴史に造詣が深く、財政再建や防災なども先人に学んだ所が多く、勤倹力行や率先垂範は偉人に共通する。

 因みに「国学」とは、日本の古典を有りの儘に吟味して、古事記や日本書記といった古典に込められている純日本的精神を追求しようとした学問であり、中世以来の儒教、仏教等を拠り所とする日本古典の研究に反対する日本独自の思想である。

 安積の地というのは、元々は二本松藩の管轄だった。明治新政府に拠って、士族を安積平野の地へ入植させる「安積開拓の案」が浮上する。その為には不毛の地であった安積平野に猪苗代湖の水を運ぶことは必要十分条件でもあったのだった。

 閑哉は、「安積開拓の案」に先駆けて、明治3年、安積疎水開拓の建白書を県令に提出している。自らに現場に赴き、「山潟案(やまがたあん)」を提唱した。然し乍ら、その3年後に閑哉は幽冥境を異にし、安積疏水の完成を見ることはなかった。

 明治9年、明治天皇の東北巡幸の下見に来た大久保は、福島県と開拓団の「開成社」が進めてきた疎水事業に感銘し、それを決断する。予算などの実行は大久保の力添えは当然乍ら、それをして「安積開拓の夢だ」とするのは如何なものか。

 疎水が着工されたのは、閑哉が建白書を提出してから8年後のことだった。工事には3年の年月を要し、明治15年に漸く完成した。安積疏水の水路は、閑哉や小林久敬らの三つのルートが提案されてが、閑哉の提案した「山縣案」が採用された。

 郡山市のパンフレットには発案者である閑哉が全く登場していない。恰も、大久保利通が「国家予算の三分の一を投じて完成させた大事業だった」としているが、余りにも、明治政府や時の権力者だった大久保に阿る歴史認識ではあるまいか。

 郡山市の明治以降の歴史を見ると、明治新政府の歴史認識が目立つのも確かだ。西軍が民衆を助ける側で、会津藩を始めとする東軍は「大槻村などに火を放ち大衆を路頭に迷わせた」などと賊軍として扱われている。安藤宮司の新聞投稿での指摘を機に、郡山市は明治新政府寄りの歴史認識を見直してみたら如何だろうか。呵呵

 余談だが、郡山市や品川萬里市長が「安積疎水事業と安積開拓の大功労者」と称える大久保利通は、日本で初めて栽培された薩摩の指宿煙草を愛用していた大のヘビースモーカーだった。愛煙家を薬物中毒に準えた健康オタクの品川市長だが、愛煙家の大久保は草葉の陰でこれを聞いて呆れているに違いない。呵呵大笑。

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cordial8317 at 06:41│Comments(0)

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