2018年02月08日
靖國神社御創立百五十年記念事業に思う
画像は靖國神社のパンフレットの表紙。今年平成30(2018)年は明治改元(1868年)から150年を迎える。江戸徳川幕府に対する倒幕運動から天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を明治維新という。だが、長州藩を中心に動いた一連の動きは尊王攘夷とは名ばかりでその実は尊皇開国だったのではあるまいか。
維新後、西洋を模倣した長州閥が中央官制を始め、地方行政、文化、教育、思想政策など多岐に亘り影響を及ぼすこととなる。中でも、靖國神社は改元後の明治2年、明治天皇の思召しに由り「東京招魂社」として建立された神社である。
靖國神社の合祀対象は、三条実美の祭文に明示されている様に、「皇軍に役立ちして、賊徒等を討たん其の義に・・・命果てぬる輩」に限られている。
この三条公の祭文の原則がある限り、また見直さない限り、会津藩や我が二本松藩、或いは西南の役での西郷軍関係者などが祀られることはなく、未来永劫 「賊軍」の儘で汚名が雪がれることは無い。明治天皇の思召しを何と心得る。
戊辰の役(戦争)では「西軍」と「東軍」は干戈を交えたが、「皇軍」という名の「官軍」と「賊軍」が戦った訳ではないし、東軍は断じて「賊徒」ではない。「賊軍」とは、維新後、長州閥の明治新政府に因って作られた造語である。
明治改元前年にあたる慶応3年(1867年)、徳川十五代将軍であった徳川慶喜が征夷大将軍の職を辞し政権を朝廷に返上した。この大政奉還を以て明治維新は成立したと考えるが、王政復古に拠って慶喜の辞官納地を決し、鳥羽伏見の戦いを経て戊辰戦争に突入して行った。何故に江戸城開城後も会津や函館を攻め入ったのか。
何のことはない西軍、中でも長州藩は「蛤御門の変(禁門の変)」で敗れたことへの恨みつらみというのが正しく、長州が掲げた錦の御旗も大義も贋物であったのだ。東北への北上に大義は無く、単なる盗賊の如きの所業であったのは紛れもない事実。
歴史に「もし」は無いが、「もし」勝海舟が西郷隆盛との会談で江戸城の無血開城を諒としたことを以て徳川幕府が崩壊したのだから維新はこの時に成立している訳で、その後の東北や会津での戦いに意味があったとは思えない。
幕府唯一の神道であった会津が何故に朝敵として責められなければなかったのか。長州藩の単なる蛤御門の変での敗戦の遺恨でしかなかった。
会津戦争を止められなかった西郷が明治新政府に干されるのも想像するに難い。明治維新とは尊王攘夷という大義ある代物とも思えないのだ。
靖國神社には未だ三条実美の祭文が効力を発揮し、東軍戦死者は賊軍として本殿に祀られることはなく「鎮霊社」に分霊されている。
だが、靖國神社が戦没者の顕彰を重んじる神社であるなら、鎮霊社という別なカタチで祀ることと、本殿に祀ることと、そのどちらが時代に即して天皇(すめろぎ、すめらぎ)が顕現される道なのか言わずとも分かるだろう。
死者の選別を続けることは日本人の死生観にもそぐわないし、明治天皇の思召しにより創建された社としては如何なものか。西軍東軍の分け隔てなく、戊辰戦争などで斃れた全ての戦没者の合祀を図るこそ天皇顕現の道である。
靖國神社御創立百五十年記念事業のパンフレットを見ると、戊辰戦争や明治維新のことには一切書かれていない。大東亜戦争での戦没者の御遺族や戦友の減少に伴い賛同者が減っっていることを案じているだけ。
その上で「国を思い、祖国を愛し、家族を慈しみつつ散華された英霊の御心を次の世代へ伝えて行くことこそ、戦後に生きる私共の責務」と施設への支援を訴えているが、靖國神社が大東亜戦争戦没者施設になってしまった様だ。
明治維新や明治天皇思し召しで創建されたことにも触れることなく、唐突に、先の大戦で散華された英霊を持ち出すことに違和感を覚える。靖國神社は大東亜戦争の英霊だけの施設になってしまったのか。
これでは反靖國派に批判される材料を与えている様なもので、靖國神社が戦没者の顕彰を重んじるなら、明治維新の過程で勃発した戊辰戦争や西南の役などで散華された東軍を含めた全戦没者の功労も顕彰すべきであろう。
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cordial8317 at 08:39│Comments(0)
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