皇紀2684年(令和6年)を迎え、恭しく聖寿の万歳を寿ぎ奉りまする最低・最悪の政権の際に最悪といえる天災が起こるのは何故!?

2024年01月03日

父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました(円谷幸吉)

 愚生の住む福島県内を始めとする東北地方や北関東の一部の地域では、正月の3日にはとろろメシ(汁)を食べる風習がある。ということで、朝は三日とろろ。

「三日とろろ」を食べるとその年は風邪をひかないと言われている。まぁ、風邪をひかない様にというより「七草粥」の様に、年末年始で飲み過ぎて疲れた胃腸を労わり滋養を付けるという意味からとろろを食べる様になったのだと思う。

「三日とろろ」でいつも思い出すのは、福島県須賀川市出身で東京五輪マラソン銅メダリストの円谷幸吉選手を思い出す。遺書の最初に「父上様、母上様、三日とろろ美味しゆうございました」と認められ、家族皆への感謝が綴られている。

 遺書の最後には「幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました」で結ばれ、中でも「幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい」の言葉は、マラソントップ選手故の苦悩の現れであり、衝撃的でもある。

 円谷選手が遺書は、世話になった方々から頂いた美味しい食べ物への感謝の言葉で綴られ、彼の人となりが十分伝わってくる内容だ。(以下、遺書の全文)

 父上様、母上様、三日とろろ美味しうございました。
 干し柿、もちも美味しうございました。
 敏雄兄姉上様、おすし美味しうございました。
 勝美兄姉上様、ブドウ酒 リンゴ美味しうございました。
 巌兄姉上様、しそめし南ばんづけ美味しうございました。
 喜久造兄姉上様 ブドウ液養命酒美味しうございました。
 又いつも洗濯ありがとうございました。
 幸造兄姉上様、往復車に便乗さして戴き有難とうございました。
 モンゴいか美味しうございました。
 正男兄姉上様、お気を煩わして大変申し訳ありませんでした。
 幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になってください。
 父上様母上様、幸吉は、もうすっかり疲れ切ってしまって走れません。
 何卒お許し下さい。
 気が休まる事なく御苦労、御心配をお掛け致し申し訳ありません。
 幸吉は父母上様の側で暮しとうございました。

 アジアで初であり、有色人種国として初めて開催された東京オリンピックで銅メダル獲得という快挙を成し遂げた幸吉は、レース後の会見でこう語った。

「私一人が走っているのではなく、日本国民全部の人が後ろから私を押していてくれるという感じを受けました」。この言葉は正しく幸吉が国士だった証しだろう。

 遺書というのはその人の人物像が現れる。中でも、特攻隊員や靖國に眠る英霊の遺書は正しく「神」そのものの渾身の叫びであり、その言葉には言霊が宿り、その精神は日本人の心の奥に響き、時空を超えて明らかに現代に感応している。

 右翼人の愚生には左翼という生き方はどんなものかは知らないが、二十八歳で自裁した連合赤軍中央委員会委員長・森恒夫の遺書には「自己の責任の重さに絶望し、自らに死刑を下す」と綴られている。その内容は次の様なものだった。

 御遺族のみなさん、
 十二名の同志はぼくのブルジョア的反マルクス的専制と戦い、
 階級性、革命性を守ろうとした革命的同志であった。
 責任はひとえにぼくにある。
 同志のみなさん、常に心から励まして下さってありがとう。
 お元気で。父上、ぼくはあなたの強い意志を学びとるべきだった。
 強い意志のない正義感は薄っぺらなものとなり、変質したのである。
 お元気で。愛する人へ、希望をもって生きて下さい。
 さようなら。荷物は坂東君に。

 森は逮捕されてからはキリスト教に関心を示していたという。革命に向けて自ら行った虐殺の罪を悔い改めてはいるが、それはその手法であって遺族への謝罪は全くないことをしても左翼思想云々以前に人間的な幼稚さが露われている。

 一方で、浅沼稲次郎社会党委員長を刺殺した山口二矢は供述調書を取り終えると移送された練馬鑑別所で自裁。その調書の中で遺族に対して心境を吐露している。

 浅沼委員長を倒すことは日本の為と堅く信じ殺害したのですから、
 行為については法に触れることではありますが今何も悔いる処はありません。
 しかし、浅沼委員長は最早故人となった人ですから、
 生前の罪悪を追及する考えは毛頭なく唯故人の冥福を祈る気持ちであります。
 又浅沼委員長の家族に対しては、如何なる父、夫であっても情愛に変わりなく、
 殺害されたことによって悲しい想いで生活をし迷惑を掛けたことは事実ですので、
 心から家族の方に申し訳ないと思っています。

 二矢は練馬鑑別所に於いて、「國のため 神洲男児晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅へ」「大君に 仕えまつれる 若人は 今も昔も 心かわらじ」の辞世を遺し、「天皇陛下万歳」と従容として死に就いた。享年十七歳。

 二矢は、「私には日本人の血が流れており唯物論では到底割り切れない。持って生まれた日本精神という唯心論的なものが滾っており、天性からこういう人生観、思想などが形成されたと思っています。尚、本当の日本人であれば、私の様な人生観、思想というものが心の奥底には必ず在ると思います」と述べている。

 十七歳の二矢と二十八歳の森恒夫との人生観の違いは歴然だろう。二矢と円谷幸吉の遺書に日本人としての惻隠の情を犇々と感じ、人というのはどれだけ長く生きたかではなく、どう生きたか、どう生きるかが大事だと痛感する。合掌再拝。

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cordial8317 at 07:09│Comments(0)

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