2023年02月10日
尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり
幕末の英雄というと、愚生的には長岡藩家老の河井継之助を置いて他にない。継之助を一躍有名にした司馬遼太郎の小説「峠」では、司馬は継之助をして「武士道倫理に生きた最後の侍だ」として、その生き様を活き活きと描いている。
「峠」で描かれている茶屋遊びの場面を想像しても、人間味に溢れた武士だったと思っている。多くの歴史家も、継之助を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げているが、一方で長岡藩を「要らぬ戦争へ巻き込んだ」との批判があるのも確か。
河井継之助、名は秋義、号は蒼竜窟。越後長岡藩士。「越(ほくえつ)の蒼竜」と称された継之助は長岡藩の近代化に努力した英雄である。継之助は、長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りで、それは大人になってからもその偏屈ぶりは変わらなかった。
少年時代は、藩校で伊藤仁斎の提唱した「古義学(こぎがく)」を学び、成長すると共に実践重視の「陽明学」へと傾倒する。17歳の時に継之助は、鶏を裁いて、王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し、誓明したという。
青年期の継之助は読書に没頭した。良書を見つけると、その書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成したという。
嘉永5(1852)年、継之助は江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事する。だが、象山の尊大さと、勿体付けて理屈を捏ねる腹の曲がり具合がどうも気に食わず、象山から遠ざかったという。何となく、それは分かる気がする。
継之助が生涯を通じて敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)その人である。安政6(1859)年には自ら松山藩まで足を運び入門を乞うも中々承諾されなかった。漸く入門を許可される。だが、継之助は「学問の講義は要りませぬ」と断ったという。象山に匹敵する腹の曲がり様にも思えるのだが(笑)
師に学問を教わるより、起居を共にすることだけでも学ぶものが多いのことを継之助は知っていた。師と雑談し、師のその一挙手一投足を目に焼き付けた。
書物を読み、暗記したところで意味はない。理論なんぞより、尊敬する人との雑談や所作、何気ないことから学ぶことこそ貴重であり、得るものが多い。
内弟子らは継之助に、「何故に貴公は方谷先生と一緒に鍬を持たないのか」と詰られるも、「嫌いだからだ。今更、百姓の真似が出来るか」と応じたという。
内弟子らが更に、「方谷先生を尊敬していないのか」と詰ると、継之助は、「尊敬はあくまでも醇乎(じゅんこ)たるべきものであり、百姓を手伝うというのはおべっかに過ぎない」と開き直ったというから、かなりの削げ者だったのだろう。
「尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり」とは実に好い。「醇乎」とは、純粋とか、全く混じり気がないな状態のこと。愚生の知る右翼には滅多にいないな。
チョッと有名な人と見るや「おべっか」ばかりで、その心情や行動に「醇乎」さは乏しい。単に「ヨイショ」好きな、権威主義者がうじゃうじゃ(苦笑)
継之助は方谷に接することで、陽明学の行動の何たるかを学ぶ。方谷を唯一「先生」と呼び、そして「希代の英雄」と讃えて、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。入門から1ヶ月半程の間に、継之助は藩政改革の方法を習得している。
方谷は後に「河井は豪すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったという。結果は残念乍ら後者の方であった。遊学を終えた別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだという。
人を容易に尊敬することのない不器用な男が、土下座したのは生涯これが最初で最後だったという。その後、継之助は長崎などへも西国遊学を果たし、見聞を広めると共に、会津藩の秋月悌次郎などとも交友を深め人脈を広げている。
愚生も最近は慢性的不如意で放浪の旅に出ていないが、どんな「旅」でも人を大きくしてくれるものだ。人との出会いに感動し、酒を酌み交わす。正に功名なんぞに意味はない。「人生意気に感じる」とかとはそういうことである。いざ、一献!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
「峠」で描かれている茶屋遊びの場面を想像しても、人間味に溢れた武士だったと思っている。多くの歴史家も、継之助を東西の優れた軍事指揮者の一人に挙げているが、一方で長岡藩を「要らぬ戦争へ巻き込んだ」との批判があるのも確か。
河井継之助、名は秋義、号は蒼竜窟。越後長岡藩士。「越(ほくえつ)の蒼竜」と称された継之助は長岡藩の近代化に努力した英雄である。継之助は、長岡藩士120石取りの代右衛門秋紀の子として生まれる。幼少の頃から腕白で、人の忠告を素直に聞かない強情張りで、それは大人になってからもその偏屈ぶりは変わらなかった。
少年時代は、藩校で伊藤仁斎の提唱した「古義学(こぎがく)」を学び、成長すると共に実践重視の「陽明学」へと傾倒する。17歳の時に継之助は、鶏を裁いて、王陽明を祭る祭壇に鶏肉を供え、人民と藩是の為に立志し、誓明したという。
青年期の継之助は読書に没頭した。良書を見つけると、その書だけを何度も読み返し、一字一句を書き留め暗記し、我が身の行動の規範と成したという。
嘉永5(1852)年、継之助は江戸に遊学し、佐久間象山、古賀謹一郎に師事する。だが、象山の尊大さと、勿体付けて理屈を捏ねる腹の曲がり具合がどうも気に食わず、象山から遠ざかったという。何となく、それは分かる気がする。
継之助が生涯を通じて敬服した人物は、備中松山藩の儒者・山田方谷(ほうこく)その人である。安政6(1859)年には自ら松山藩まで足を運び入門を乞うも中々承諾されなかった。漸く入門を許可される。だが、継之助は「学問の講義は要りませぬ」と断ったという。象山に匹敵する腹の曲がり様にも思えるのだが(笑)
師に学問を教わるより、起居を共にすることだけでも学ぶものが多いのことを継之助は知っていた。師と雑談し、師のその一挙手一投足を目に焼き付けた。
書物を読み、暗記したところで意味はない。理論なんぞより、尊敬する人との雑談や所作、何気ないことから学ぶことこそ貴重であり、得るものが多い。
内弟子らは継之助に、「何故に貴公は方谷先生と一緒に鍬を持たないのか」と詰られるも、「嫌いだからだ。今更、百姓の真似が出来るか」と応じたという。
内弟子らが更に、「方谷先生を尊敬していないのか」と詰ると、継之助は、「尊敬はあくまでも醇乎(じゅんこ)たるべきものであり、百姓を手伝うというのはおべっかに過ぎない」と開き直ったというから、かなりの削げ者だったのだろう。
「尊敬はあくまでも醇乎たるべきものであり」とは実に好い。「醇乎」とは、純粋とか、全く混じり気がないな状態のこと。愚生の知る右翼には滅多にいないな。
チョッと有名な人と見るや「おべっか」ばかりで、その心情や行動に「醇乎」さは乏しい。単に「ヨイショ」好きな、権威主義者がうじゃうじゃ(苦笑)
継之助は方谷に接することで、陽明学の行動の何たるかを学ぶ。方谷を唯一「先生」と呼び、そして「希代の英雄」と讃えて、方谷が唱える思想を熱心に学んだ。入門から1ヶ月半程の間に、継之助は藩政改革の方法を習得している。
方谷は後に「河井は豪すぎる。豪すぎることが幸福な結果になるか、不幸を呼ぶか」と語ったという。結果は残念乍ら後者の方であった。遊学を終えた別れの朝、継之助は対岸の街道の路上に土下座し、師匠の小さな姿を伏し拝んだという。
人を容易に尊敬することのない不器用な男が、土下座したのは生涯これが最初で最後だったという。その後、継之助は長崎などへも西国遊学を果たし、見聞を広めると共に、会津藩の秋月悌次郎などとも交友を深め人脈を広げている。
愚生も最近は慢性的不如意で放浪の旅に出ていないが、どんな「旅」でも人を大きくしてくれるものだ。人との出会いに感動し、酒を酌み交わす。正に功名なんぞに意味はない。「人生意気に感じる」とかとはそういうことである。いざ、一献!
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cordial8317 at 06:06│Comments(0)
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