2023年03月04日
今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない(中江藤樹)
徳川幕府時代は、儒教の「朱子学」を盛んにした。朱子学が形式や礼儀を重んじたのに対して、明の王陽明が唱えた「陽明学」は、心の持ち方を大切にする教えであった。日本最初の陽明学者は、中江藤樹(なかえとうじゅ)という人物である。
陽明学は、主体的実践を重視した新儒教と言われるものであり、「心即理」「致良知」「知行合一」「無善無悪」などを主要な学説としている学問である。
王陽明は若い頃は生活もだらしなく、無頼の徒で、仁侠道にも溺れたり、武道に凝り過ぎたり、詩や仏法に惑溺したり。終に儒教に辿り着き、独自の学派を拓く。
「知識」は「行動」と一つであるという心理は、人を狂人にし、常に人を行動へと駆り立てる。陽明学でいう「狂」とは、単に「狂った」という意味ではなく、「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心の儘に率直に行動すること」である。
自ら言葉にしたことは必ず実行するという「知行合一」の教えとは陽明学の究極の思考でもある。逆を言えば「実行できるかどうか分からないことは言葉にしない」、自分の発言には自らの覚悟と責任を課していることを意味する。
「良知に至る」とは、人は誰でも生まれ乍らにして美しい心、即ち「良知」というのを持っている。その心を汚さず、鏡の様に磨き上げておくことが身を修める根本だという意味である。「良知」というのは「性善説」とはチョッと違う。
罪を犯すというのは「良知」が乏しく、自分自身を磨き上げることを怠ったということで、死刑廃止を訴える人権派弁護士らの「性善説」は本末転倒である。
人権派を自任してる連中も政治家にしても、言葉が軽く国民から支持されないのはのは、陽明学の「良知」の意味を知らず行動にも責任も持てないからだ。
陽明学は「志を立てる」ところから始まり、磨かれた良知に基き「行動に昇華する」ことで終結する。つまり、例えば政治家を志すにしても、自分の言葉に責任を持ち、自らが率先垂範して国民の模範となることが大事であるということだ。
幕末の英雄・河井継之助や三島由紀夫など陽明学を重んじている人物は生き様は共通してどことなく破天荒でもある。継之助が、当時の衒学臭げな尊皇の徒輩とどこか違うのは、陽明学の「実践的理想主義」故のものだったからではなかろうか。
何事に於いてもそうだが、行動する上で大事なのは、時代を見つめる「冷静な目」である。この時代を見抜く俯瞰した目と、陽明学の「狂」の精神こそが、時代を切り拓き、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではない。
藤樹は、病弱な母親を養う為に、「今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない」と武士の身分を捨てて故郷の近江国(滋賀県)へ帰る。武士の魂と言われた刀を売り、生活資金を作り、貧しい乍ら老母に仕え、そして村人に学問を教えた。
噂を聞いて、遠近から藤樹の人柄を慕って来る者は絶えなかったという。講義を受けていた中の一人の馬方が、客が馬の鞍に結び付けた儘の二百両入りの財布を忘れてしまう。藤樹は八里も離れた宿場まで届けるが礼金を享けなかったという。
この評判を聞いた熊沢蕃山は、「貴男の様な立派な御武家にお教えする様な学も徳もない」と、弟子入りを申し出る。藤樹は、師となることを固く断る。諦めない蕃山は門前に二日間座り込み、漸く入門が叶ったという。後に蕃山は、岡山藩主・池田光政に仕えることとなり、藤樹から教わった学問を政治に活かした。
「大学惑問(だいがくわくもん)」で政治を批判した藤樹は、幕府に咎められ禁錮中に病死した。41歳の若さで没したが、多くの門人達に熱心に且つ真面目に、更に丁寧に教えた故に、現在でも「近江聖人」と讃えられ、尊敬され続けている。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
陽明学は、主体的実践を重視した新儒教と言われるものであり、「心即理」「致良知」「知行合一」「無善無悪」などを主要な学説としている学問である。
王陽明は若い頃は生活もだらしなく、無頼の徒で、仁侠道にも溺れたり、武道に凝り過ぎたり、詩や仏法に惑溺したり。終に儒教に辿り着き、独自の学派を拓く。
「知識」は「行動」と一つであるという心理は、人を狂人にし、常に人を行動へと駆り立てる。陽明学でいう「狂」とは、単に「狂った」という意味ではなく、「理想を高く持ち、何の虚飾も隠し立てもなく、心の儘に率直に行動すること」である。
自ら言葉にしたことは必ず実行するという「知行合一」の教えとは陽明学の究極の思考でもある。逆を言えば「実行できるかどうか分からないことは言葉にしない」、自分の発言には自らの覚悟と責任を課していることを意味する。
「良知に至る」とは、人は誰でも生まれ乍らにして美しい心、即ち「良知」というのを持っている。その心を汚さず、鏡の様に磨き上げておくことが身を修める根本だという意味である。「良知」というのは「性善説」とはチョッと違う。
罪を犯すというのは「良知」が乏しく、自分自身を磨き上げることを怠ったということで、死刑廃止を訴える人権派弁護士らの「性善説」は本末転倒である。
人権派を自任してる連中も政治家にしても、言葉が軽く国民から支持されないのはのは、陽明学の「良知」の意味を知らず行動にも責任も持てないからだ。
陽明学は「志を立てる」ところから始まり、磨かれた良知に基き「行動に昇華する」ことで終結する。つまり、例えば政治家を志すにしても、自分の言葉に責任を持ち、自らが率先垂範して国民の模範となることが大事であるということだ。
幕末の英雄・河井継之助や三島由紀夫など陽明学を重んじている人物は生き様は共通してどことなく破天荒でもある。継之助が、当時の衒学臭げな尊皇の徒輩とどこか違うのは、陽明学の「実践的理想主義」故のものだったからではなかろうか。
何事に於いてもそうだが、行動する上で大事なのは、時代を見つめる「冷静な目」である。この時代を見抜く俯瞰した目と、陽明学の「狂」の精神こそが、時代を切り拓き、明治維新への道と切り開く転換点となったと言っても過言ではない。
藤樹は、病弱な母親を養う為に、「今、孝行を尽くさなければ後悔しても間に合わない」と武士の身分を捨てて故郷の近江国(滋賀県)へ帰る。武士の魂と言われた刀を売り、生活資金を作り、貧しい乍ら老母に仕え、そして村人に学問を教えた。
噂を聞いて、遠近から藤樹の人柄を慕って来る者は絶えなかったという。講義を受けていた中の一人の馬方が、客が馬の鞍に結び付けた儘の二百両入りの財布を忘れてしまう。藤樹は八里も離れた宿場まで届けるが礼金を享けなかったという。
この評判を聞いた熊沢蕃山は、「貴男の様な立派な御武家にお教えする様な学も徳もない」と、弟子入りを申し出る。藤樹は、師となることを固く断る。諦めない蕃山は門前に二日間座り込み、漸く入門が叶ったという。後に蕃山は、岡山藩主・池田光政に仕えることとなり、藤樹から教わった学問を政治に活かした。
「大学惑問(だいがくわくもん)」で政治を批判した藤樹は、幕府に咎められ禁錮中に病死した。41歳の若さで没したが、多くの門人達に熱心に且つ真面目に、更に丁寧に教えた故に、現在でも「近江聖人」と讃えられ、尊敬され続けている。
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cordial8317 at 05:44│Comments(0)

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