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2020年10月22日

迷故三界城 悟故十方空 本来無東西 何処有南北(無着道忠禅師)

「苦しいこともあるだろう。言い度いこともあるだろう。不満なこともあるだろう。腹の立つこともあるだろう。泣き度いこともあるだろう。これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である」とは山本五十六元帥の金言である。

 修行の仕方には色々あるのだろうが、愚生の場合、手っ取り早いのは歩くことだと思っている。兎に角歩く。30分とか1時間ではなく半日くらい歩いてみる。

 初めこそ歩きながら頭に過った由無し事をあれやこれやと考えたり、演説の練習がてらペラペラと喋ってみたりするが、そのうち考えることも忘れて無心になる一瞬がある。これも座禅でいうところの無の境地というものなのではあるまいか。

 四国巡礼の御遍路にはいつか行ってみたいと思っている。歩くことで過去の自分と向き合い、あれやこれやと想いを巡らせているうちに歩くことに集中しそれが修行となる。四国巡礼の御遍路で被る笠には次の言葉が書かれてある。

 迷故三界城 (迷うが故に三界は城なり)
 悟故十方空 (悟るが故に十方は空なり)
 本来無東西 (本来東西は無く)
 何処有南北 (何処んぞ南北有らんや)無着道忠禅師 同行二人

 その意味は「迷いがあるから、まるで城に閉じ込められているかの如く愚劣な考えに縛られて自らを苦しめている。悟りを得ると大宇宙の如く自由自在な境地を得ることが出来る。この世には本来、東も西もない。拘りを捨て、ゆったりと世の中を渡って行こう」。「同行二人」とは、いつも弘法大師と共にあるということ。

 読書の秋ではあるが、最近は専ら映画ばかりで本を読む機会がめっきり減ってしまった。座右の書を一冊挙げろと言われれば吉田兼好の「徒然草」だろうか。

 三十八段に「名利に使われて、閑かなる暇もなく、一生を苦しむこそ、愚かなれ。財多ければ、身を守るにまどし。害を買い、累を招く媒なり。身の後には、金をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはさるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり」とある。

「世俗的な名声とか地位とか財産とかに身も心も使われて、心静かにゆったりと生活を楽しむ余裕もなく、一生あくせくと暮らすなど実に愚かなことだ。財産が多いとそれだけ身を守らねばならず、面倒な煩いを招くもととなる。例え死んだ後でも残された遺族たちは財産分与で揉めるだけだ。そんな愚かな人々の為に自慢したところで、それもまたつまらないことだ。利欲に惑うことは最も愚かな人である」と訓える。

 徒然草と同じく「葉隠」も好きな一冊だ。葉隠の正式名称は「葉隠聞書」といい、佐賀藩士・山本常朝が、同藩の田代陣基に語った口述記録である。

 三島由紀夫は「葉隠入門」で「行動の知恵と決意が自ずと逆説を生んで行く、類の無い不思議な道徳書。如何にも精気に溢れ、如何にも明朗な人間的な書物」と語っている様に、現代人にも通用するものも多く非常に役に立つ金言に溢れている。

 例えば「意見の仕方」のというのがある。「人に意見してその人の欠点を直すということは大切なことであり、慈悲の心とも言える。ただ、意見の仕方には骨を折る必要がある。大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だ。こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけのことと同じ結果になってしまう」と語っている。

 そう教えた上で、「意見というものは先ず、その人がそれを受け入れられるかどうかを見極め、相手と親しくなり、何時も信用する様な状態で仕向けるところから始めなければならない。言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計な事を言わなくても思い当たる様に仕向けるのが良い。先ずは良いところを褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが意見というものである」と、意見に対する極意を説いている。

 意見一つに、これほどの細やかな気遣いをする現代人はいないだろう。三島由紀夫が「葉隠は道徳規範の書」であると教えるのはそういうことでもある。

 冒頭での「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」が独り歩きし、読みもせずに「危険な書」だと思っているのではないだろうか。葉隠は日本人必読の書である。

 葉隠では「美しく死ぬか」と教え、同時に「何の為に生きるか」と説く。「人間の一生なんて真に短いものだ。だから、好きなことをして暮らすべきである。(中略)。自分は寝ることが好きだ。だから、今の境遇に合わせて、家に閉篭り、寝て暮らそうと考えている」との一節がある。「寝て暮らそう」とはどういうことか。

 三島由紀夫はこうした喩えを「逆説」と教えているが、道徳規範の書と言われる葉隠は「その裏の真実を読み取る術が要求される」とも語っている。

 常朝の教えを真似している訳ではないが、団体を辞してからというもの家に引き籠っていることが多い。碌に働きもせずに浪人として生きて行くことは他人が考えるより過酷な精神修養で、小人故に暇を持て余して不善を成す危険と相対す(笑)

 最近は山歩きも御無沙汰だが、山を歩いてると苦しい中にも何かを感じることがある。一人で野営し、当たり前ではない日常をたった一日過ごしただけでも日々の見え方が違うし、例えば布団で寝れるという当たり前なことが有り難くも感じる。

 渓流釣りでもそうだが愉しい中にも崖を攀じ登ったり、それをまた下りたり、激流を超えたり泳いだりと、苦しさがあるからこそ実に清々しい気持ちになる。

 自然の偉大さを感じながらも自然と対峙することで「無の境地」に近付くからではあるまいかと勝手に思っている。来月からはワカサギ釣りが解禁されるが、座ったままで単純な動作を半日ほど繰り返すあの釣りもまた修行に近い。呵呵。

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cordial8317 at 08:19│Comments(0)

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