2017年10月11日
小林旭じゃなくてもラスベガス銃乱射事件の犯人は「キチガイ」だろう
小林旭がフジテレビの朝の情報番組にコメンテーターとして登場し、アメリカのラスベガスでの銃乱射事件に関して、犯人を「キチガイ」と発言した。愚生も聞いてたが、この小林の発言に反応したテレビ局が番組内でアナウンサーが謝罪した。
放映後、視聴者から小林批判が相次いだ。銃乱射事件の犯人を「精神的が病んでた」とか詰ったところで真意は伝わらない。正に、小林旭の発した「キチガイ」という言葉こそがピッタリの表現で、キチガイにキチガイと言って何が問題なのよ。
「放送禁止用語」の全てを差別用語としてしてしまう風潮こそ、逆差別を生む危うさを感じる。 愚生は、昔ほど本は読まなくなった。インチキ保守の売文より、映画の方が為になると思っているので、ジャンルは問わず毎日何かしらは観ている。
古い日本映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、実践した教育でもある。日本映画の、例えば「座頭市」や「眠狂四郎」とかの古い映画は、盲(めくら、めしい)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)なんていう放送禁止用語が飛び交っていて実に面白い。
最近観た映画では、竹内力が主演した「岸和田少年愚連隊・カオルチャン伝説」には差別用語が何気に飛び出してて実に笑えた。言論の自由を標榜しているのなら、くだらない倫理観で放送禁止用語が作られ規制されてる実態は矛盾そのものだ。
子供の「供」は供えるという意味で、「親に供えるとは怪しからん」などとキチガイ共が騒いで「子ども」表記が蔓延したと同じく、そのうち「馬鹿」も「人を馬や鹿に喩えるとは差別だ!」だとか、「アホか」などと言ったものなら「阿呆は痴呆症の意味もあるから使用禁止!」なんてことにも成り兼ねない(笑)
愚生が敬愛する、評論家でもあり現代の思想家でもある呉智英は、差別の風潮を、「差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい。人類が目指すべきは『差別もある明るい社会』である。差別さえない暗黒社会にしてはならない」と語ってる。逆説的且つ哲学的ではあるが実に示唆に富んでいる。
自称愛国者や保守派らの中には昨今の道徳観の低下を嘆き、戦前の「修身(しゅうしん)」を復活するべきだという声も聴く。だが、修身には、例えば「おたけがめくらのてをひいて」などと表現されているのを知ってるのだろうか。
これは弱者に手を伸べる優しさを教えているが、この「めくら」は差別用語でもあり、こうした差別用語が処処に羅列されてる「修身」の復活はどう考えても無理だろう。差別表記を直して復活するのか、そのままの標記のままか(笑)
保守陣営は、「修身」の復活と同様に、「教育勅語」を道徳教育の指導原理と成すべきであると訴えているが、教育勅語を教え、諳んじられる様になったところで意味はない。大事なことはその教えを如何に実践するかが重要となる。
「バス(電車)で席に座っていたら高齢者が乗ってきました。あなたはどうしますか?」「目の見えない人が横断歩道を渡ろうとしています。助けてあげますか?」と問われたら、誰もが「席を譲る」「助ける」と答えるだろう。
だが、理論や筆記試験で100点を取ったところで意味はない。道徳教育や倫理観というのは行動や実践が伴って初めて身に付くもので、それが社会に役立つのだ。
差別用語に敏感になればなるほど、それが曲解され、その真意が伝わらないのだとしたら弱者救済にも繋がらないし、逆差別を助長している様なものだ。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
放映後、視聴者から小林批判が相次いだ。銃乱射事件の犯人を「精神的が病んでた」とか詰ったところで真意は伝わらない。正に、小林旭の発した「キチガイ」という言葉こそがピッタリの表現で、キチガイにキチガイと言って何が問題なのよ。
「放送禁止用語」の全てを差別用語としてしてしまう風潮こそ、逆差別を生む危うさを感じる。 愚生は、昔ほど本は読まなくなった。インチキ保守の売文より、映画の方が為になると思っているので、ジャンルは問わず毎日何かしらは観ている。
古い日本映画や古典落語には差別用語だけではなく、懐かしくも美しい日本語が処処に溢れていて、実践した教育でもある。日本映画の、例えば「座頭市」や「眠狂四郎」とかの古い映画は、盲(めくら、めしい)、唖(おし)、吃(ども)り、跛(びっこ)、聾(つんぼ)なんていう放送禁止用語が飛び交っていて実に面白い。
最近観た映画では、竹内力が主演した「岸和田少年愚連隊・カオルチャン伝説」には差別用語が何気に飛び出してて実に笑えた。言論の自由を標榜しているのなら、くだらない倫理観で放送禁止用語が作られ規制されてる実態は矛盾そのものだ。
子供の「供」は供えるという意味で、「親に供えるとは怪しからん」などとキチガイ共が騒いで「子ども」表記が蔓延したと同じく、そのうち「馬鹿」も「人を馬や鹿に喩えるとは差別だ!」だとか、「アホか」などと言ったものなら「阿呆は痴呆症の意味もあるから使用禁止!」なんてことにも成り兼ねない(笑)
愚生が敬愛する、評論家でもあり現代の思想家でもある呉智英は、差別の風潮を、「差別は正しい、差別と闘うのが正しいのと同じぐらい正しい。人類が目指すべきは『差別もある明るい社会』である。差別さえない暗黒社会にしてはならない」と語ってる。逆説的且つ哲学的ではあるが実に示唆に富んでいる。
自称愛国者や保守派らの中には昨今の道徳観の低下を嘆き、戦前の「修身(しゅうしん)」を復活するべきだという声も聴く。だが、修身には、例えば「おたけがめくらのてをひいて」などと表現されているのを知ってるのだろうか。
これは弱者に手を伸べる優しさを教えているが、この「めくら」は差別用語でもあり、こうした差別用語が処処に羅列されてる「修身」の復活はどう考えても無理だろう。差別表記を直して復活するのか、そのままの標記のままか(笑)
保守陣営は、「修身」の復活と同様に、「教育勅語」を道徳教育の指導原理と成すべきであると訴えているが、教育勅語を教え、諳んじられる様になったところで意味はない。大事なことはその教えを如何に実践するかが重要となる。
「バス(電車)で席に座っていたら高齢者が乗ってきました。あなたはどうしますか?」「目の見えない人が横断歩道を渡ろうとしています。助けてあげますか?」と問われたら、誰もが「席を譲る」「助ける」と答えるだろう。
だが、理論や筆記試験で100点を取ったところで意味はない。道徳教育や倫理観というのは行動や実践が伴って初めて身に付くもので、それが社会に役立つのだ。
差別用語に敏感になればなるほど、それが曲解され、その真意が伝わらないのだとしたら弱者救済にも繋がらないし、逆差別を助長している様なものだ。
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cordial8317 at 04:51│Comments(0)
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