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2017年09月08日

ベートーヴェンの交響曲第九番が日本で初めて演奏されてから百周年

 地元紙にベートーヴェンの交響曲第九番が日本で初めて演奏されてから百周年となるのを前に、会津若松市文化センターで第九日本初演プレ百年祭が開催され、地元の葵高校合唱部が出演するという記事が載っている。何故に会津で「第九」なのか。

 板東俘虜(ふりょ)収容所で第九は初めて演奏されたという。所長は松江豊寿(まつえとよひさ)大佐。映画「バルトの楽園」では松平健が豊寿を演じた。

 松江豊寿は明治5(1872)年、旧会津藩士の長男として生まれる。大正6(1917)年、徳島県の坂東俘虜収容所の所長時代、会津人の崇高な精神と人格を以てドイツ人捕虜に人道的接し、捕虜らに因る日本で初めての「第九」の演奏会を開いた。退役後には第9代若松市長に就くが、「第九代」の市長というのにも縁を感じる。

 愚生的には豊寿の実弟である春次に興味が湧く。後に、「キング・オブ・シュガー 」と称される、日本で初めて角砂糖を作った人物である。明治9年(1976)市内馬場町(現在の中央二丁目)に生まれ、会津中学(現会津高校)を卒業し、苦学して東京工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業し、大日本製糖に入社。

 春次は米国ルイジアナ大学にも留学し砂糖科を卒業するも、技術習得の為にヨーロッパに出向。31歳で帰国し、日本初の角砂糖の製造に成功する。その後も製糖会社を転々とし、台湾での製糖業で成功を収めるも自身が描く南洋開発の夢の為に退社。5万人の日本人が入植していた「南国の楽園」と言われたサイパン島に渡った。

 然し、実際にはサイパン島では、国の入植事業に失敗した約1000人の日本人が生活に苦しんでいたという。島を調査し、製糖事業の成功を確信した春次は、地元の人々を救う為に「南洋興発株式会社」を設立し、開拓に着手する。

 サイパンでの製糖事業は大成功し、地元民や日本からも多くの入植者を迎えた。成功した春次は、成金趣味を持たず会津人らしく質素な生活を続けた。

 育英事業に私財を投じる。苦難の経験から「青年に投資する」を持論とし、自分の土地、株券を売却し、故郷の会津工業高校へ33万円(現在の数億円に相当)を寄付し、機械科を創設させ、多くの技術者が育ち日本に貢献することとなる。

 会津藩と言えば白虎隊の悲劇は誰もが知るところだが、こうした会津の若者の悲運もあって、春次が「日本の将来の為にも青年を育てなければ」という思いに駆られたのだと思う。 第二次世界大戦は激烈を極め、日本軍は終に敗走する。

 サイパンを占領した米軍は「キング・オブ・シュガー・松江春次像」の倒壊を謀るが、地元住民からの懇願で断念したという。春次が慕われていたかが分かる。

 春次は、敗戦で財産の殆どを失ったが、砂糖製造を中心に開発事業に成功した優れた開拓者として語り伝えられている。野口英世に並ぶ福島が生んだ英雄である。

 晩年、春次は、サイパンへの郷愁を抱きながら、酒を酌み交わすことが楽しみだったという。春次は酔いに任せて、「生来無一物(しょうらいむいちぶつ)」という字を好んで書いたという。「生来無一物」とは禅の教えである。

 菩提本無樹「菩提本(もと)樹(じゅ)無し」
 明鏡亦非台「明鏡も亦台に非ず」
 本来無一物「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」
 何処惹塵埃「何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん」

 この大意は、「本来菩提には樹などという不変なものはない、明鏡という心もない。故に、本来無一物である。よって塵埃の溜まりようがないから払拭の必要もないではないか」という教えで実に好い。春次の「本来無一物」との渾身の書がある、激動の時代を生き抜いた会津人としての春次の人となりを感じてしまうのだ。

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cordial8317 at 05:23│Comments(0)

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