2024年08月18日
「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」
昭和20年、ポツダム宣言を受諾した8月14日以降もソ連の北方領土でへの侵略は収まる事はなく、同月18日には千島列島最北端の占守島にソ連軍が奇襲上陸する。
我が国の無条件降伏に拠り武装解除準備を始めていた守備隊は、この奇襲を受けると武装を整え直し、ソ連に対して自衛戦闘を開始した。占守島の守備隊は、終戦時点でも日本陸軍最強部隊と称された第91師団(2個旅団基幹)などを擁していた。
短い戦闘であったが日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3000名に及んだ。日本軍の圧倒的勝利の中で、3日後の21日に武装解除に応じ戦闘が終結した。
日本軍が武装解除を終えたのは3日後の24日。 この「占守島の戦い」に拠って、ソ連軍の千島列島の占領が遅れ北海道への上陸が困難となったのは事実である。
占守島での戦いの間に米軍の北海道進駐が完了。米軍進駐に拠って、ドイツや朝鮮半島の様な北海道の分割統治は避けられたのだ。そういう意味でも、ソ連軍の北海道進駐を阻んだ「占守島の戦い」とは大きな意義があった戦いだったのである。
この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、中千島や南千島に駐留していた兵士全てがシベリアに強制連行された。理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士達は、こうした仕打ちさえも無条件降伏の条件だと信じたのだ。
ソ連軍は千島列島だけではなく、日本人が居住していた樺太でも蛮行を繰り返した。外務省の外交文書「ポ宣言受諾関係・善後措置及び各地状況関係」には、昭和20年8月9日以降のソ連軍の蛮行が生々しく書かれている。一部摘記する。
東部北鮮在留日本人の状況として「ソ連兵ハ30年来ノ怨ミヲ晴ラスハ此時ナリトシ邦人ノ所持品ハ一物ヲモ残サズ略奪シ婦女子ニ対シテハ時所ヲ弁エズ暴行ヲ加フルノ暴挙ノ出テ・・・」と記載されているが、怒りが込み上げる。
鉄原(京城東北八十キロ)の状況として、「ソ連進駐ト共ニ市街ノ様相ハ一変シ、ソ連兵市内ヲ横行シ略奪ヲ擅(ほしいまま)ニシ9月1日男24名ヲ本願寺ニ、女32名ヲ広島屋ニ監禁シ女ハ一室ニ一名宛閉ジ若キ娘ハ毎日14、5名、年配ノ婦人ハ毎日10名交代ニ暴行ヲ加ヘ其ノ結果6名ハ死亡シ、然ラザル者モ負傷ノ為歩行ノ自由ヲ失ウニ至ル・・・」と、拉致した女性らは慰安婦にさせられている。
捉えられた婦女子は「監禁され、ソ連兵に凌辱される」という恐怖から、自裁する道を選択せざるを得なかった女性も少なくなかった。樺太真岡郵便局の女子郵便局員も、ソ連軍が進行する中、職務を全うした後に自裁する道を選んだ。
伊藤千枝(23歳)、可香谷シゲ(23歳)、沢田キミ(19歳)、志賀晴代(22歳)、高石みき(24歳)、高城淑子(19歳)、松橋みどり(17歳)、吉田八重子(21歳)、渡辺照(17歳)の9名は、青酸カリを服用し壮絶な最後を遂げた。
彼女達の悲劇を伝えた映画「氷雪の門」という映画がある。その昔、この映画の権利は国際勝共連合が持っていて赤坂の本部事務所で観たのが最初だった。
(氷雪の門のあらすじ)昭和20年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出されるも、20日のソ連軍の上陸で間に合わなかった。志願して職場に留まり、追い詰められた女性交換手達は、通信で寄せられるあちこちで次々と殺害される市民の状況から、自らも青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。9人の乙女の像に刻まれている「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉だった。(あらすじ終わり)
今ではこの映画もレンタルビデオでも気軽に見れる様になったが、この映画の上映が決定された昭和49年、ソ連の御先棒を担ぐ日本社会党(社民党)や日本共産党らは猛反対。上映阻止の運動を展開し、終には上映されることはなかった。
日頃、彼らは「平和」を口にして原爆投下の米国を糾弾するが、広島・長崎の原爆投下での犠牲者を遥かに超える死者を出したソ連の蛮行には口を噤む不思議。
原子爆弾で無辜の民を殺戮した米国に拠る原爆投下への批判はあって当然のことだが、連中の目的は執拗にこの古傷を暴いて日米離間を謀ると共に、党勢拡大と革命謀略の為に国民の安直な平和主義と幼稚な正義感を利用しているに過ぎない。
平和団体であるなら長崎への原爆投下が実行された同じ9日未明に断行された旧ソ連の対日参戦も糾弾すべきだが、未だ嘗て彼らから日ソ中立条約の蹂躙や北方領土での鬼畜の如き蛮行が語られることはない。何が「平和」か、何が平和団体か。
ソ連の終戦間際の鬼畜の如き蛮行は、米国の原爆投下と無差別爆撃と同じく「平和に対する罪」であり「人道に対する罪」である。平和団体が、こうしたソ連の蛮行とシベリア抑留という人権侵害など多くの不条理に何故に声を上げないのか。
国際法を無視し不当にシベリヤに抑留され、極寒の地で亡くなられた方も数え切れない。シベリアへ抑留された日本人は日本国内では一般に約60万人と言われているが、この数字は軍属だけの数字で、民間人を含めると更に多いという。
ロシアの資料でも約70万人、米国の資料では約90万人と言われているが、その中で亡くなられた方はどれ程に上るのか、正式な被害者数を調査すべきだろう。
日頃「平和」を口にする共産党や社民党とは所詮はこの程度のクソ政党であり、単なる党勢拡大と中国共産党の前衛として忠誠を尽くす反米運動でしかない。
政治家は軽々しく「平和を守る」というスローガンを掲げて有権者に訴える。だが、「平和」を口にはするが、どうやって我が国の防衛を強化して平和を創造するかという具体策は言わない。正に我が国の政治家こそが無防備の害となっている。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたことがあった。軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因と自覚するべし。
御粗末なクソ憲法を守り、米軍に反対し、自衛隊が無くなれば当たり前に平和が存在するのだと疑って止まないが、平和を守るには自衛隊の存在なくして語れない。
我が国では愛国心が批判され、「自国の防衛を否定する現憲法には問題がある」と言った途端に反発を食らうが、正に思考停止であり無防備の害そのもの。
「平和」の反対が「戦争」ではない。戦争の反対は「話し合い」であり、正しく戦争は政治や外交の延長線上にあるものであって、国際法上も認められた正当な行為である。「平和」の反対は、戦争に因って引き起こされる「混乱」である。
「平和は当たり前」にあるものだと思っている。この「当たり前」の反対は「有り難い」であり、平和は当たり前ではなく稀に存在する「有り難い」ことなのだ。
「平和」という偶然に「有り難い」ことと感謝することは当たり前のことだが、珍左翼に足りないのは、米軍を「当たり前」の存在として敵視していることだ。
「平和」を口にしてる連中は「平和で有ることが難い」ことであるいう自覚が無く、平和は「当たり前」に存在することだと勘違いしている故に米軍や自衛隊に感謝することもない。「平和」というのは自らの懸命な努力で創り出さねばならない。
末尾に当り、北の島々に眠る日本人同胞の御霊に対し衷心より哀悼の意を表します。また長きに亘り、拙ブログを御愛顧頂きまして有難うございました。
※ここの所、体調が優れず病院で検査したところステージ4の癌と分かりました。治る見込みもないので治療はせずに退院し、余生を穏やかに過ごそうと思っています。活動家としては忸怩たる思いはありますが、後悔はありません。では、さらば!
我が国の無条件降伏に拠り武装解除準備を始めていた守備隊は、この奇襲を受けると武装を整え直し、ソ連に対して自衛戦闘を開始した。占守島の守備隊は、終戦時点でも日本陸軍最強部隊と称された第91師団(2個旅団基幹)などを擁していた。
短い戦闘であったが日本軍の死傷者約600名、ソ連軍の死傷者約3000名に及んだ。日本軍の圧倒的勝利の中で、3日後の21日に武装解除に応じ戦闘が終結した。
日本軍が武装解除を終えたのは3日後の24日。 この「占守島の戦い」に拠って、ソ連軍の千島列島の占領が遅れ北海道への上陸が困難となったのは事実である。
占守島での戦いの間に米軍の北海道進駐が完了。米軍進駐に拠って、ドイツや朝鮮半島の様な北海道の分割統治は避けられたのだ。そういう意味でも、ソ連軍の北海道進駐を阻んだ「占守島の戦い」とは大きな意義があった戦いだったのである。
この戦いの後、占守島で自衛戦闘を戦った日本軍の兵士のみならず、中千島や南千島に駐留していた兵士全てがシベリアに強制連行された。理不尽な終戦後の戦争を勇敢に戦った兵士達は、こうした仕打ちさえも無条件降伏の条件だと信じたのだ。
ソ連軍は千島列島だけではなく、日本人が居住していた樺太でも蛮行を繰り返した。外務省の外交文書「ポ宣言受諾関係・善後措置及び各地状況関係」には、昭和20年8月9日以降のソ連軍の蛮行が生々しく書かれている。一部摘記する。
東部北鮮在留日本人の状況として「ソ連兵ハ30年来ノ怨ミヲ晴ラスハ此時ナリトシ邦人ノ所持品ハ一物ヲモ残サズ略奪シ婦女子ニ対シテハ時所ヲ弁エズ暴行ヲ加フルノ暴挙ノ出テ・・・」と記載されているが、怒りが込み上げる。
鉄原(京城東北八十キロ)の状況として、「ソ連進駐ト共ニ市街ノ様相ハ一変シ、ソ連兵市内ヲ横行シ略奪ヲ擅(ほしいまま)ニシ9月1日男24名ヲ本願寺ニ、女32名ヲ広島屋ニ監禁シ女ハ一室ニ一名宛閉ジ若キ娘ハ毎日14、5名、年配ノ婦人ハ毎日10名交代ニ暴行ヲ加ヘ其ノ結果6名ハ死亡シ、然ラザル者モ負傷ノ為歩行ノ自由ヲ失ウニ至ル・・・」と、拉致した女性らは慰安婦にさせられている。
捉えられた婦女子は「監禁され、ソ連兵に凌辱される」という恐怖から、自裁する道を選択せざるを得なかった女性も少なくなかった。樺太真岡郵便局の女子郵便局員も、ソ連軍が進行する中、職務を全うした後に自裁する道を選んだ。
伊藤千枝(23歳)、可香谷シゲ(23歳)、沢田キミ(19歳)、志賀晴代(22歳)、高石みき(24歳)、高城淑子(19歳)、松橋みどり(17歳)、吉田八重子(21歳)、渡辺照(17歳)の9名は、青酸カリを服用し壮絶な最後を遂げた。
彼女達の悲劇を伝えた映画「氷雪の門」という映画がある。その昔、この映画の権利は国際勝共連合が持っていて赤坂の本部事務所で観たのが最初だった。
(氷雪の門のあらすじ)昭和20年夏、樺太の西海岸に位置する真岡町でも日ソ中立条約を一方的に破棄して参戦したソ連軍の侵攻に脅かされようとしていた。ソ連軍侵攻からの避難民は群をなして真岡町に向った。8月15日には玉音放送によって終戦が告げられ、樺太全土に婦女子の強制疎開命令が出されるも、20日のソ連軍の上陸で間に合わなかった。志願して職場に留まり、追い詰められた女性交換手達は、通信で寄せられるあちこちで次々と殺害される市民の状況から、自らも青酸カリによる自決を選ぶしかなかった。9人の乙女の像に刻まれている「みなさん、これが最後です。さようなら、さようなら」が通信最後の言葉だった。(あらすじ終わり)
今ではこの映画もレンタルビデオでも気軽に見れる様になったが、この映画の上映が決定された昭和49年、ソ連の御先棒を担ぐ日本社会党(社民党)や日本共産党らは猛反対。上映阻止の運動を展開し、終には上映されることはなかった。
日頃、彼らは「平和」を口にして原爆投下の米国を糾弾するが、広島・長崎の原爆投下での犠牲者を遥かに超える死者を出したソ連の蛮行には口を噤む不思議。
原子爆弾で無辜の民を殺戮した米国に拠る原爆投下への批判はあって当然のことだが、連中の目的は執拗にこの古傷を暴いて日米離間を謀ると共に、党勢拡大と革命謀略の為に国民の安直な平和主義と幼稚な正義感を利用しているに過ぎない。
平和団体であるなら長崎への原爆投下が実行された同じ9日未明に断行された旧ソ連の対日参戦も糾弾すべきだが、未だ嘗て彼らから日ソ中立条約の蹂躙や北方領土での鬼畜の如き蛮行が語られることはない。何が「平和」か、何が平和団体か。
ソ連の終戦間際の鬼畜の如き蛮行は、米国の原爆投下と無差別爆撃と同じく「平和に対する罪」であり「人道に対する罪」である。平和団体が、こうしたソ連の蛮行とシベリア抑留という人権侵害など多くの不条理に何故に声を上げないのか。
国際法を無視し不当にシベリヤに抑留され、極寒の地で亡くなられた方も数え切れない。シベリアへ抑留された日本人は日本国内では一般に約60万人と言われているが、この数字は軍属だけの数字で、民間人を含めると更に多いという。
ロシアの資料でも約70万人、米国の資料では約90万人と言われているが、その中で亡くなられた方はどれ程に上るのか、正式な被害者数を調査すべきだろう。
日頃「平和」を口にする共産党や社民党とは所詮はこの程度のクソ政党であり、単なる党勢拡大と中国共産党の前衛として忠誠を尽くす反米運動でしかない。
政治家は軽々しく「平和を守る」というスローガンを掲げて有権者に訴える。だが、「平和」を口にはするが、どうやって我が国の防衛を強化して平和を創造するかという具体策は言わない。正に我が国の政治家こそが無防備の害となっている。
三島由紀夫は、「戦争を誘発する大きな原因の一つは、アンディフェンデッド・ウェルス(無防備の害)だ」と訓えたことがあった。軽々しく「平和」を訴えている政治家こそが政治や外交を危ぶみ、戦争を誘発する最大要因と自覚するべし。
御粗末なクソ憲法を守り、米軍に反対し、自衛隊が無くなれば当たり前に平和が存在するのだと疑って止まないが、平和を守るには自衛隊の存在なくして語れない。
我が国では愛国心が批判され、「自国の防衛を否定する現憲法には問題がある」と言った途端に反発を食らうが、正に思考停止であり無防備の害そのもの。
「平和」の反対が「戦争」ではない。戦争の反対は「話し合い」であり、正しく戦争は政治や外交の延長線上にあるものであって、国際法上も認められた正当な行為である。「平和」の反対は、戦争に因って引き起こされる「混乱」である。
「平和は当たり前」にあるものだと思っている。この「当たり前」の反対は「有り難い」であり、平和は当たり前ではなく稀に存在する「有り難い」ことなのだ。
「平和」という偶然に「有り難い」ことと感謝することは当たり前のことだが、珍左翼に足りないのは、米軍を「当たり前」の存在として敵視していることだ。
「平和」を口にしてる連中は「平和で有ることが難い」ことであるいう自覚が無く、平和は「当たり前」に存在することだと勘違いしている故に米軍や自衛隊に感謝することもない。「平和」というのは自らの懸命な努力で創り出さねばならない。
末尾に当り、北の島々に眠る日本人同胞の御霊に対し衷心より哀悼の意を表します。また長きに亘り、拙ブログを御愛顧頂きまして有難うございました。
※ここの所、体調が優れず病院で検査したところステージ4の癌と分かりました。治る見込みもないので治療はせずに退院し、余生を穏やかに過ごそうと思っています。活動家としては忸怩たる思いはありますが、後悔はありません。では、さらば!
cordial8317 at 05:38│Comments(0)
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