安倍内閣の支持率の高さは無能な野党の責任でもある。憲法第九条に「その二」を新設するという姑息さ

2017年06月20日

国道289(八十里峠)開通と只見線の鉄路復旧が待ち遠しい

 地元紙に、平成23(2011)年7月の新潟・福島豪雨で橋梁が崩壊し不通となっている只見線の会津川口~只見駅間の鉄路復旧が、JR東日本と県は正式に合意し来年度早々に着工との記事が躍る。平成23年3月には東日本大震災も起きている。

 大震災直後、福島第一原発事故に因って放射線被害ばかりが騒がれ、要らぬ除染作業に数兆円規模の莫大な復旧費用が費やされた。それを考えれば、只見線の復旧費は高々81億円程度、奥会津地方や南会津の観光資源や経済効果を考えれば、政府が介入しもう少し早く復旧予算を拠出することは出来なかったものだろうか。

 運行再開は4年後の2021年。また只見~燕三条に抜ける国道289号線(通称八十里峠)の開通予定も2022年を予定しており、待ち遠しい。只見といえば、幕末の英傑・河井継之助終焉の地。幕末の英雄といえば坂本龍馬や吉田松陰などを挙げる人は多いが、愚生にとっての歴史上で尊敬する人物は河合を於いて他にはいない。

 慶応4(1968)年1月3日(新暦1月27日)、鳥羽伏見の戦いが勃発し戊辰戦争の火蓋が切られた。西軍は次第に勢力を強めて3月には江戸城の無血開城を成すと、上野寛永寺の戦いなどにも勝利し、西軍最大の目標である会津を目指し北上する。

 7月、北越の地にも西軍が迫る。長岡藩は継之助の下、藩内を統一し「非武装中立」を貫こうとするも西軍の岩村精一郎との会談は決裂に至る。継之助よりずっと若いである岩村の傲岸不遜な対応に、継之助は東軍勢力として戦うことを決意する。

 その後、奥羽列藩同盟に加わり「北越戦争」へと突入して行く。長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により、開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。圧倒的物量を有する西軍に比べ、絶対的な兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(同7月8日)な再び長岡城を奪われる。

 6月2日(同7月21日)、長岡軍は城下の「今町の戦い」を制して逆襲に転じると、7月24日(同9月10日)夕刻には敵の意表を突く「八丁沖渡沼作戦」を実施し、翌日に長岡城を再び奪還することに成功する。この奪還の代償は大きかった。

 長岡城の奪還を果たした当日、継之助は左膝下に被弾し重傷を負った。河井の負傷に由って長岡軍の士気が下がり、戦線は次第に後退、戦局は益々不利となった。継之助の傷も化膿が酷く、破傷風に罹ってしまい、已む無く会津での捲土重来を期すことを決意。会津へは国境の「八十里峠」を超えなければならなかった。

 歴史に「もし」はないが、岩村が敬を以て相対していれば、また西軍が岩村の様な小僧ではなく、山縣有朋(狂二)や板垣退助、西郷隆盛らが対応していれば「会津戦争」は避けられ、維新後の我が国の歴史も大きく変わっていたことだろう。

 只見には作家の開高健ら太公望が通う「銀山湖(只見ダム)」には、40センチオーバーの大イワナが棲んでいるという。また、只見町内には本を定価の5分の1で買い取り、只見町の森林や土地と交換してくれる古本屋「たかもく」が在る。

 渓流釣りが好きだし、部屋の本を買ってくれるのなら一石二鳥である。右翼人としての終の棲家は、只見町の銀山湖の近くに住みたいと思ってるが、豪雪地方だから無理か。それとも只見町内で、「相模屋食堂分店」でもやろうかな。呵呵大笑。

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cordial8317 at 06:55│Comments(0)

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