2022年12月05日
何事も両目をカッと見開いて物事の真意を吟味したいものです
当り前だが人間には目玉が二つある。だが、「明き盲(めくら)」という言葉がある様に、多くの人は世の中の事柄を片目(一面)でしか見ていなかったり、理解力が乏しかったり、自分で判断もせずに大勢に流されてしまう人ばかり。
伊達政宗や前田利家、柳生十兵衛、乃木希典、北一輝、小泉八雲、双葉山などなど、歴史上で大成した人物には隻眼(せきがん)が多いが、片目の方というのはその不自由さ故に物事の見方や事象を冷静に見て判断するからではあるまいか。
世の中(大衆)というのは自分で見聞きしたものよりも、数の多いものが「当たり前」と捉え、数の少ないものを「間違い」と決め付ける癖がある。
徳川時代に日本にやってきた外人は、日本人の丁髷を見て、日本人の男は恐ろしい、頭にピストルを載せているとびっくりしたという。それに尾鰭が付いて「チョンマゲ、ハラキリ、フジヤマ、ゲーシャ」などの変な日本人観が生まれた。
そういう日本人も来日した外人を見て、背の高い赤毛の天狗が来たとびっくりしたというからお互い様だが、人の見る目と噂というものは存外そんなもの(笑)
もう直ぐ大東亜戦争の開戦記念日を迎えるが、先の大戦に突入する頃は「対米開戦已む無し」の声が大勢を占め、当時の国会議員の中で反対したのは大日本愛国党総裁で当時参議院議員だった赤尾敏ら少数議員だったというから嗤えない。
当時の多くの国民は「神州不滅」を信じ「戦争反対」の意見を吐くものなら周りから「非国民」と罵られ、憲兵にしょっ引かれて酷い目に遭わされた。右翼は好戦家に思われがちだが赤尾の行動に見る様に俯瞰した意志と行動こそ大事。
つまり、いつの世も大衆が時代を創っているのだが、その大衆の多くは無知で愚かであり、扇動される大衆というのは実に操縦し易く、都合好く世論操作が行われる。そういう意味では国民意識というのは戦前から何も進歩もしていない。
反原発派らが目の敵にする原発だってそうだ。第一次オイルショックを経験した日本は、基幹エネルギーに原発を選択する。そして我が国は高度成長に乗り、三種の神器といわれるテレビ、冷蔵庫、洗濯機といった家電が普及する。
こうした便利さを多くの国民は当たり前だと思ったのは事実で、今更、原発を批判するのは筋違いだろう。そうした恩恵の全てを否定して「原発の無い時代に戻せ!」とか「故郷を返せ!」というのは本末転倒と言う他は無い。
民主主義は多数決だが、数の多い意見が正しいとは限らないし、同様に善人必ずしも善人とは限らず、悪人必ずしも悪人と言い難い。大衆から「キチガイ」や「変人」と呼ばれてる人から見れば、大衆こそが変人に見えてるのかも知れない(笑)
「世評なんぞ気にかけるな。人間の評価など十年毎に浮き沈みするものだ。大奸物、大逆物と言われた勝麟太郎も今では伯爵という華族様の勝安芳様と言われる様になった。世評など変わるものだし、信じるものではない」とは勝海舟。
人間の賢愚、美醜、善悪など、そう簡単に決められるものではない。その時代の価値観や何事も極一部の人間(指導者)の判断で決まるもので、大衆はいつの時代も指導者の意に沿ってどうにでも、どっちにも動き流されるものなのだ。
ヒトラーは「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ」と叫ぶ。
そしてこう訓える。「必要不可欠なのは、一人の指導者の意志、一人が命じ、他の人はそれを実行すればよい」。つまりトップに立つ人の意思が大事なのだが、そのトップに立つ人に国家観や人間性が乏しいと国民が不幸に陥ることとなる。
我が国の政治が大衆迎合主義に陥るのは、マスコミに誘導された大衆に媚びるばかりで強固な意志(国家観)を持った政治家がいないことに尽きる。
議論し合うことは必要なことではあるが、大事なのは意見が対立した場合に上に立つ者の意志と実行力が結果を左右する。これは組織も会社も同じこと。社長や役員がだらしなければその会社に未来は無い。さっさと辞めるに限る(笑)
世評なんぞ懼れるに足らず。坂本龍馬は「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」と訓えているが、事を成すには強い信念を持つべし。
時代の怪しい風潮や大勢の意見に流されることなく、明き盲にならず、何事にも両目をカッと見開いて、その中身を吟味し判断する癖を付けたいものだ。呵々
※ブログコメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員は300000円~。
伊達政宗や前田利家、柳生十兵衛、乃木希典、北一輝、小泉八雲、双葉山などなど、歴史上で大成した人物には隻眼(せきがん)が多いが、片目の方というのはその不自由さ故に物事の見方や事象を冷静に見て判断するからではあるまいか。
世の中(大衆)というのは自分で見聞きしたものよりも、数の多いものが「当たり前」と捉え、数の少ないものを「間違い」と決め付ける癖がある。
徳川時代に日本にやってきた外人は、日本人の丁髷を見て、日本人の男は恐ろしい、頭にピストルを載せているとびっくりしたという。それに尾鰭が付いて「チョンマゲ、ハラキリ、フジヤマ、ゲーシャ」などの変な日本人観が生まれた。
そういう日本人も来日した外人を見て、背の高い赤毛の天狗が来たとびっくりしたというからお互い様だが、人の見る目と噂というものは存外そんなもの(笑)
もう直ぐ大東亜戦争の開戦記念日を迎えるが、先の大戦に突入する頃は「対米開戦已む無し」の声が大勢を占め、当時の国会議員の中で反対したのは大日本愛国党総裁で当時参議院議員だった赤尾敏ら少数議員だったというから嗤えない。
当時の多くの国民は「神州不滅」を信じ「戦争反対」の意見を吐くものなら周りから「非国民」と罵られ、憲兵にしょっ引かれて酷い目に遭わされた。右翼は好戦家に思われがちだが赤尾の行動に見る様に俯瞰した意志と行動こそ大事。
つまり、いつの世も大衆が時代を創っているのだが、その大衆の多くは無知で愚かであり、扇動される大衆というのは実に操縦し易く、都合好く世論操作が行われる。そういう意味では国民意識というのは戦前から何も進歩もしていない。
反原発派らが目の敵にする原発だってそうだ。第一次オイルショックを経験した日本は、基幹エネルギーに原発を選択する。そして我が国は高度成長に乗り、三種の神器といわれるテレビ、冷蔵庫、洗濯機といった家電が普及する。
こうした便利さを多くの国民は当たり前だと思ったのは事実で、今更、原発を批判するのは筋違いだろう。そうした恩恵の全てを否定して「原発の無い時代に戻せ!」とか「故郷を返せ!」というのは本末転倒と言う他は無い。
民主主義は多数決だが、数の多い意見が正しいとは限らないし、同様に善人必ずしも善人とは限らず、悪人必ずしも悪人と言い難い。大衆から「キチガイ」や「変人」と呼ばれてる人から見れば、大衆こそが変人に見えてるのかも知れない(笑)
「世評なんぞ気にかけるな。人間の評価など十年毎に浮き沈みするものだ。大奸物、大逆物と言われた勝麟太郎も今では伯爵という華族様の勝安芳様と言われる様になった。世評など変わるものだし、信じるものではない」とは勝海舟。
人間の賢愚、美醜、善悪など、そう簡単に決められるものではない。その時代の価値観や何事も極一部の人間(指導者)の判断で決まるもので、大衆はいつの時代も指導者の意に沿ってどうにでも、どっちにも動き流されるものなのだ。
ヒトラーは「大衆は、小さな嘘より大きな嘘にだまされやすい。なぜなら、彼らは小さな嘘は自分でもつくが、大きな嘘は怖くてつけないからだ」と叫ぶ。
そしてこう訓える。「必要不可欠なのは、一人の指導者の意志、一人が命じ、他の人はそれを実行すればよい」。つまりトップに立つ人の意思が大事なのだが、そのトップに立つ人に国家観や人間性が乏しいと国民が不幸に陥ることとなる。
我が国の政治が大衆迎合主義に陥るのは、マスコミに誘導された大衆に媚びるばかりで強固な意志(国家観)を持った政治家がいないことに尽きる。
議論し合うことは必要なことではあるが、大事なのは意見が対立した場合に上に立つ者の意志と実行力が結果を左右する。これは組織も会社も同じこと。社長や役員がだらしなければその会社に未来は無い。さっさと辞めるに限る(笑)
世評なんぞ懼れるに足らず。坂本龍馬は「世の人は我を何とも言わば言え、我が成すことは我のみぞ知る」と訓えているが、事を成すには強い信念を持つべし。
時代の怪しい風潮や大勢の意見に流されることなく、明き盲にならず、何事にも両目をカッと見開いて、その中身を吟味し判断する癖を付けたいものだ。呵々
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cordial8317 at 07:37│Comments(0)
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