羯諦羯諦羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶困難に耐え忍び難きを忍び、決して挫けることなく、初一念を貫いて皇国日本の再建に邁進せよ!

2016年11月19日

士(し)別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし

「男子三日会わざれば刮目して見よ」とか「士(し)別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」という言葉があるが、男同士の付き合いというか、人生意気に感ずるとは斯く在りたいと思っているし、そういう付き合いをしているつもりだ。

 そんな喩えとは違う「呉下の阿蒙(ごかのあもう)」という言葉がある。三国志時代、「呉」の国に、呂蒙(ろもう)という武力に長じた武将がいた。呂蒙はその無鉄砲ともいえる勇猛さで、その名は「魏」や「蜀」にも響き亘っていた。

 勇猛なその一方で、呂蒙は無学だったので、君主の孫権(そんけん)が「学問を学び、人間の幅を広げるように」と呂蒙に諭した。 それから時が流れて、呉の知将・魯粛(ろしゅく)が、前線司令官として赴任する途中に呂蒙の下を訪ねた。

 呂蒙は、魯粛の赴任先の正面には、当時最強と言われた蜀の将軍・関羽が指揮官に就いていると聞いて、関羽の性格を分析し、適切な戦略を魯粛に助言した。

 武骨なだけの昔の呂蒙しか知らない魯粛はこれに驚き、「呉の城下を走り回っていたあの頃の蒙ではないな」と語った。これが「旧呉下の阿蒙に非ず」である。

 呂蒙は己の智の無さを知り、孫権の言う通り学問に励み、いつしか勇に智が伴う武将になっていたのだった。そして呂蒙は「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」と言ったという、これが「三国志演義」でも有名な一場面である。

「男子三日会わざれば刮目して見よ」「士別れて三日、即ち更に刮目して相待すべし」とは、日々鍛錬している者は三日も会わなければ見違えるほど変わっている。転じて、いつまでも同じ先入観ではなく新しいものとして見よということ。

 個人的なことだが、30代に入り、総本部の運動の総責任者を任されて活動していた時期に、鹿児島県指宿市出身の若者が活動に加わる様になり、右翼活動の何たるかを仕込み、若手活動家として名を馳せて行く。行動隊の行動隊長を任命し、いざこれからだがという頃に、何故か突然、消える様にいなくなった。

 何があったのかその理由も分からない。その年だったか、1年後だったか、盟友との全国行脚世直し街宣という放浪の旅で鹿児島の知覧へ行く機会があり、この若者の指宿の自宅を探して訪れたことがあった。「三顧の礼」を以て迎えてやろうと思ったのだが、結局は会えず仕舞い。要は縁がなかったということで諦めた。

 それから約20年。twitterとfacebookからら本人名メッセージが入った。ニセモノだと思ってはいたが、twitterのメッセージに返事してみたら、本人だった。

 邂逅の一言に尽きるとはこのこと。その後の本人の自慢話や武勇伝に耳を傾け、辞めた理由を問い質すと、とんでもない内部の事情だったことが分かった。愚生の至らなさではあるが、フケた一因には総隊長も関わってたと知り茫然自失となる。

 本人も心の何処かに消えて居なくなったことに負い目を感じていたのだろうが、それでホッとしたのか本人の性格か、先輩や上司への礼節などなく、こっちの状況もお構いなし。本人も寂しいし、懐かしいという想いが募ってるのだろうが、話す内容もくだらない事ばっかで、昔のやんちゃな頃から全く成長していない。

 本人も苦労もしただろうし、山口組山健組の若者となりそれなりの修業も積んだのだろうがどうも身になっていないというか「呉下の阿蒙」そのものなのだ。

 男同士の付き合いとは括目して相対すものであると思うし、「人生は邂逅の一言に尽きる」というのであれば、男同士の付き合いというのは斯くありたいものだ。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員は300000円~。

cordial8317 at 05:09│Comments(0)

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

羯諦羯諦羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦菩提薩婆訶困難に耐え忍び難きを忍び、決して挫けることなく、初一念を貫いて皇国日本の再建に邁進せよ!