2023年04月27日
民主主義というのは正に衆愚政治でもあるというのを痛感する
故安倍晋三は、街頭演説に妨害ヤジを飛ばす連中に向かって、「こんな人達に負ける訳には行かないんです」と叫んだ。正に安倍の言う通り、「こんな人達」という日本の敵が露わになった。そんな「こんな人達」は、流行りの「多様性」だとか「共生」を訴える。そうした主張に反論するものなら「差別」のレッテル貼り。
己らの意見こそ正義であると主張してるが、所詮は左翼マスコミやインチキジャーナリズムに煽られ洗脳された幼稚で安っぽいな正義感でしかない。無知故に、信じ込んだ相手を妄信する。極左に因るオルグさえも気付かずに歪んだ主張に与する。
マスコミやインチキジャーナリズムというのは、国民の安直な正義感や倫理観を利用し、自分達の主張こそが「正義であり、民主主義である」との主張を居丈高に振り翳し国民を誑かしている。国民もまたマスコミの垂れ流す報道を疑いも無く信用し、利用されていることも分からずに幼稚で安っぽい主義主張を訴えて悦に入る。
「大衆の多くは無知で愚かである」「熱狂する大衆のみが操縦可能である」と言ったのはアドルフ・ヒトラーだが、要は、簡単に言えば多くの有権者というのはバカで利用し易いということだ。ヒトラーはこうも言っている。「私は間違っているが、世間はもっと間違っている」。こういう幼稚で始末に負えないバカという大衆が、現在の有権者であり、その一票一票を集めて当選してるのだからバカしか当選しない。
現在の選挙制度で当選した政治家にバカが多いのは当然の結果であり、そんな政治家に期待する方がバカというもの。政治家は大衆に媚び諂い、「国民の目線に立った政治を行う」と然も国民を慮った様な台詞を吐く。だが、民主主義の本質は国民目線に立つことではないし、大衆に迎合し平均的な国民を生み出すことではない。
「国民目線」というのは国民の平均値のことを指すのだろうが、平均値で国の政を行うことは余りにも危険であり、政治が国民目線に立った時には必ず国は滅ぶというのは世の常でもある。何故なら、国民の判断力とううのは古今東西常に低く、その意見も時代に流され、大衆に流され、実に幼稚で気紛れなものだからだ。
民主党の政権交代にしろ、その圧倒的支持を得た民主党が失脚したのも、自民党の政権奪回にしても、安倍人気にしても、熱狂した国民の安っぽい風潮からホンのチョッとの間だけ支持されただけのこと。言い換えれば民衆の一時の気紛れの結果でしかなく、熱し易い国民は覚め易く、自公連立もどうなるかは分からない。
政治とは国家観を重んじながら、国民目線とかけ離れた人間観、世界観、高度な権謀術数を必要とするものなのだ。ネットでは自称保守派が自分の仕事そっちのけで日本の将来を熱く語り、意にそぐわない意見には反論し批判するが、そういう人もまた扱い易いというもの。本来、政治というものがきちんと機能していれば、大衆が政治に係わることなどないものだ。三島由紀夫は嘗てそれをこう喩えている。
「胃痛の時に初めて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いていれば、存在を意識される筈のものではなく、況して食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちゃんと政治をしていれば、鍛冶屋はちゃんと鍛冶屋の仕事に専念していられるのである」。三島のこの言葉は正に正鵠であろう。
そういう意味では、然も自分が政治家になったつもりで、大衆があ~だこ~だと嘆いてる米国も我が日本も政治が機能していない証左でもある。 ヒトラーは「私は間違っているが、世間はもっと間違っている」と言った。斯くいう愚生も、右翼として日本人としての正論を語ってきたつもりでいるが、訴える相手側に敬もなければ、逆に嫌われてるのに、熱く正論を吐いたところで聞き入れられる訳もない(笑)
ポピュリズムである衆愚政治はこれからも続くだろう。そして行き着く処まで行かなけりゃ国民が目覚めることも無い。そしてその時に「維新」という革命が起こるのだ。歴史は常に繰り返される。全維新者は皇運を扶翼すべく一旦緩急に備えよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
己らの意見こそ正義であると主張してるが、所詮は左翼マスコミやインチキジャーナリズムに煽られ洗脳された幼稚で安っぽいな正義感でしかない。無知故に、信じ込んだ相手を妄信する。極左に因るオルグさえも気付かずに歪んだ主張に与する。
マスコミやインチキジャーナリズムというのは、国民の安直な正義感や倫理観を利用し、自分達の主張こそが「正義であり、民主主義である」との主張を居丈高に振り翳し国民を誑かしている。国民もまたマスコミの垂れ流す報道を疑いも無く信用し、利用されていることも分からずに幼稚で安っぽい主義主張を訴えて悦に入る。
「大衆の多くは無知で愚かである」「熱狂する大衆のみが操縦可能である」と言ったのはアドルフ・ヒトラーだが、要は、簡単に言えば多くの有権者というのはバカで利用し易いということだ。ヒトラーはこうも言っている。「私は間違っているが、世間はもっと間違っている」。こういう幼稚で始末に負えないバカという大衆が、現在の有権者であり、その一票一票を集めて当選してるのだからバカしか当選しない。
現在の選挙制度で当選した政治家にバカが多いのは当然の結果であり、そんな政治家に期待する方がバカというもの。政治家は大衆に媚び諂い、「国民の目線に立った政治を行う」と然も国民を慮った様な台詞を吐く。だが、民主主義の本質は国民目線に立つことではないし、大衆に迎合し平均的な国民を生み出すことではない。
「国民目線」というのは国民の平均値のことを指すのだろうが、平均値で国の政を行うことは余りにも危険であり、政治が国民目線に立った時には必ず国は滅ぶというのは世の常でもある。何故なら、国民の判断力とううのは古今東西常に低く、その意見も時代に流され、大衆に流され、実に幼稚で気紛れなものだからだ。
民主党の政権交代にしろ、その圧倒的支持を得た民主党が失脚したのも、自民党の政権奪回にしても、安倍人気にしても、熱狂した国民の安っぽい風潮からホンのチョッとの間だけ支持されただけのこと。言い換えれば民衆の一時の気紛れの結果でしかなく、熱し易い国民は覚め易く、自公連立もどうなるかは分からない。
政治とは国家観を重んじながら、国民目線とかけ離れた人間観、世界観、高度な権謀術数を必要とするものなのだ。ネットでは自称保守派が自分の仕事そっちのけで日本の将来を熱く語り、意にそぐわない意見には反論し批判するが、そういう人もまた扱い易いというもの。本来、政治というものがきちんと機能していれば、大衆が政治に係わることなどないものだ。三島由紀夫は嘗てそれをこう喩えている。
「胃痛の時に初めて胃の存在が意識されると同様に、政治なんてものは、立派に動いていれば、存在を意識される筈のものではなく、況して食卓の話題なんかになるべきものではない。政治家がちゃんと政治をしていれば、鍛冶屋はちゃんと鍛冶屋の仕事に専念していられるのである」。三島のこの言葉は正に正鵠であろう。
そういう意味では、然も自分が政治家になったつもりで、大衆があ~だこ~だと嘆いてる米国も我が日本も政治が機能していない証左でもある。 ヒトラーは「私は間違っているが、世間はもっと間違っている」と言った。斯くいう愚生も、右翼として日本人としての正論を語ってきたつもりでいるが、訴える相手側に敬もなければ、逆に嫌われてるのに、熱く正論を吐いたところで聞き入れられる訳もない(笑)
ポピュリズムである衆愚政治はこれからも続くだろう。そして行き着く処まで行かなけりゃ国民が目覚めることも無い。そしてその時に「維新」という革命が起こるのだ。歴史は常に繰り返される。全維新者は皇運を扶翼すべく一旦緩急に備えよ!
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cordial8317 at 05:06│Comments(0)
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