2016年10月09日
社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない(三島由紀夫)
日弁連が人権擁護大会を開き「2020年までに死刑廃止を」とする宣言を採択した。左翼の巣窟とも言える日弁連が死刑制度に反対することは別段驚かない。
驚くのは、この大会にビデオメッセージを寄せた日本共産党の瀬戸内寂聴が、「殺したがるバカ共と戦って下さい」などと被害者遺族の心情を逆撫でしたことは、人の道、仏の道を説く僧侶として万死に値する発言である。寂聴よ、恥を知りなさい。
我が国の死刑制度は「仇討ち禁止令」や「決闘禁止」に代わるものとして明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令。幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切る為のが目的だった。
愚生は如何なる理由は問わず、人を殺めた場合は極刑にすべきだと思っている。「一人なら無期、二人以上なら死刑」という過去の判例にも疑問を持っている。
日本社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺し「自分の行為は大義である、後悔はしていない、だが、ひとりの人命を奪った償いはしなければならない」として自裁した17歳の山口二矢の潔さを尊敬する。「社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない」とは三島由紀夫。日本人が重んじるのは魂であり精神性である。
人権派を自任する弁護士や死刑廃止を訴える人は、これと同じ様に「生命は地球より重い」と言わんばかりに肉体だけを守ろうとする。左翼に被れながらも「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に嵌ってるのも御粗末だが、安っぽい感傷に浸って悦に入ってるとしか思えないし滑稽にも見える。
欧米に倣うなら、「人を裁けるのは神のみ」と言いながら犯罪を犯した者を逮捕せず、その場で射殺するあの警察の傲慢さも学ぶべきではないのか。我が国も、現場の警察官に凶悪犯人を容易に射殺する権限も与えれば好いではないか。
「死刑制度廃止」を訴える左翼陣営からは、東条英機命を始めとした所謂・A級戦犯とされた7名の方々が死刑執行や、正式な裁判も行われず不当に処刑されたB・C級の方々の名誉回復が図られたことはない。東京裁判の不当性は扨て置き、戦犯の汚名を着せられた彼らは、その判決を諒とし、死を以て罪を償ってくれたのである。だが、この処刑こそ、人道に反する最たるもので、人権無視の暴挙ではないのか。
死刑廃止論者とは死生観の違いと言えばそれまでだが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。「死刑制度」は、他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、それは無駄に生きて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもあり、それは畢竟、死刑囚への大慈悲でもある。
日本人とは何事も潔さが肝要で、「生」に拘るより「死」を以て償うべきだ。死刑囚というのは他人を「殺したい」という衝動に駆られて実行した訳だが、自分が死の淵に立たされて命乞いとは情けなや。「死刑論」でも喧々諤々の論争が繰り広げられるが、こうした論争を見てても日本というのはホント平和なんだと実感する。
三島由紀夫はこうも訓える。「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である」。肉体の死ぬのを恐れる死刑廃止論というのは正に平和ボケの象徴でもある。
「刑事訴訟法」では、死刑確定から六ヵ月以内の執行を定めており、何れも六ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、法相の命令から5日以内に執行されなければならない。だが、これが忠実に守られることはなく、死刑確定者の数は殖える一方。その要因は、検察庁は「死刑執行上申書」の提出を怠り、押印を躊躇する法務大臣の職務怠慢、職務放棄と言っても過言ではない。
法務大臣の任を享けた者として、覚悟を以て大臣としての職務を遂行するべきで、それも出来ないのなら法務大臣は愚か政治家を辞めるべきだろう。検察庁は「死刑執行上申書」を規定通りに提出し、法務大臣は粛々と死刑を執行せよ!
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
驚くのは、この大会にビデオメッセージを寄せた日本共産党の瀬戸内寂聴が、「殺したがるバカ共と戦って下さい」などと被害者遺族の心情を逆撫でしたことは、人の道、仏の道を説く僧侶として万死に値する発言である。寂聴よ、恥を知りなさい。
我が国の死刑制度は「仇討ち禁止令」や「決闘禁止」に代わるものとして明治6年(1873)2月、司法卿・江藤新平が「復讐禁止令(仇討ち禁止令。太政官布告第37号)」を発令。幕末から維新期の派閥、政論の対立による暗殺とその報復という面があったところから、この種の紛争を断ち切る為のが目的だった。
愚生は如何なる理由は問わず、人を殺めた場合は極刑にすべきだと思っている。「一人なら無期、二人以上なら死刑」という過去の判例にも疑問を持っている。
日本社会党委員長・浅沼稲次郎を刺殺し「自分の行為は大義である、後悔はしていない、だが、ひとりの人命を奪った償いはしなければならない」として自裁した17歳の山口二矢の潔さを尊敬する。「社会は肉体の安全を保障するが、魂の安全は保証しない」とは三島由紀夫。日本人が重んじるのは魂であり精神性である。
人権派を自任する弁護士や死刑廃止を訴える人は、これと同じ様に「生命は地球より重い」と言わんばかりに肉体だけを守ろうとする。左翼に被れながらも「人を裁けるのは神のみだ」というキリスト教的欧州思考に嵌ってるのも御粗末だが、安っぽい感傷に浸って悦に入ってるとしか思えないし滑稽にも見える。
欧米に倣うなら、「人を裁けるのは神のみ」と言いながら犯罪を犯した者を逮捕せず、その場で射殺するあの警察の傲慢さも学ぶべきではないのか。我が国も、現場の警察官に凶悪犯人を容易に射殺する権限も与えれば好いではないか。
「死刑制度廃止」を訴える左翼陣営からは、東条英機命を始めとした所謂・A級戦犯とされた7名の方々が死刑執行や、正式な裁判も行われず不当に処刑されたB・C級の方々の名誉回復が図られたことはない。東京裁判の不当性は扨て置き、戦犯の汚名を着せられた彼らは、その判決を諒とし、死を以て罪を償ってくれたのである。だが、この処刑こそ、人道に反する最たるもので、人権無視の暴挙ではないのか。
死刑廃止論者とは死生観の違いと言えばそれまでだが、残虐な犯行をした者が、死刑廃止で国法により生命を保証されるというのも如何なものか。「死刑制度」は、他人を犠牲にした犯罪への相当の審判であり、それは無駄に生きて来た人生にピリオドを打つ為の優しさでもあり、それは畢竟、死刑囚への大慈悲でもある。
日本人とは何事も潔さが肝要で、「生」に拘るより「死」を以て償うべきだ。死刑囚というのは他人を「殺したい」という衝動に駆られて実行した訳だが、自分が死の淵に立たされて命乞いとは情けなや。「死刑論」でも喧々諤々の論争が繰り広げられるが、こうした論争を見てても日本というのはホント平和なんだと実感する。
三島由紀夫はこうも訓える。「心の死ぬことを恐れず、肉体の死ぬことばかり恐れている人で日本中が占められているならば、無事安泰であり平和である」。肉体の死ぬのを恐れる死刑廃止論というのは正に平和ボケの象徴でもある。
「刑事訴訟法」では、死刑確定から六ヵ月以内の執行を定めており、何れも六ヶ月以内に検察庁が法務大臣に「死刑執行上申書」を提出し、規定通り押印し、法相の命令から5日以内に執行されなければならない。だが、これが忠実に守られることはなく、死刑確定者の数は殖える一方。その要因は、検察庁は「死刑執行上申書」の提出を怠り、押印を躊躇する法務大臣の職務怠慢、職務放棄と言っても過言ではない。
法務大臣の任を享けた者として、覚悟を以て大臣としての職務を遂行するべきで、それも出来ないのなら法務大臣は愚か政治家を辞めるべきだろう。検察庁は「死刑執行上申書」を規定通りに提出し、法務大臣は粛々と死刑を執行せよ!
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cordial8317 at 06:46│Comments(0)
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