2023年02月08日
動いてならぬ時の軽挙妄動を戒めを訓えているのが「風林火山」である
福島県の一級河川・阿武隈川は、西郷村の源流が白河に流れ、多くの支流を呑み込みながら県内を縦断し、北は宮城県の荒浜から太平洋に灌いでいる。場所に由っては南から北へ、或いは東から西へ、西から東へと流れる場所もある。
この様に川というのは紆余曲折であって、なだらかな流れもあれば激流もある。舟で下ったとしても滝に出くわしたり、ダムで堰き止められてたり。カヌーやカヤックで下ったとしても、それを運ばなきゃならない場所もある。
雨が降れば増水し、その姿を一変したり。移り変わる風景もそうした流れがあるから心に響く。人生もそれと同じで「紆余曲折」というものを理解しないと失敗の基となるし、失敗や試練を経験してない人というのはどこか魅力も削がれる。
政治も然りで、右に行ったり左を向いたり。ここで大事なのはその流れの最後に辿る場所である。果たしてどんな処なのか理解しているかが重要となる。
大局に立ってその流れを見定める目を養わなくてはならないが、我が国の政治を見る時、果して今、その川がどんな場所でどちらを向いているのか、なだらかなのか、激流なのか、悲しい哉、我が国の政治家にそれが見えているとは思えない。
激流に流され慌てたり、少しばかりのことで驚く様であれば大将の器は無い。困ったこと、悪いことが起これば右往左往してる様じゃ先が思い遣られるし、ロクな結果を生まない。困難が起これば、立ち止まって状況を冷静に見極めることだ。
試練は必ず終わる。腰を据えて対策を考えればその暗闇から微かではあるが光が見えて来るし、光が見えれば勇気も湧いてくる。決して慌てて動かないことが肝要。故野村秋介の「熱い風呂に入ってる時はじっとしていろ」とは蓋し名言である。
武田信玄の「風林火山」は「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句の原文は、「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」。
「(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し)」と読む。ここで注目すべきは作戦行動に於ける「動」と「静」の対比。攻めるときは風の様に疾く、燃ゆる火の勢いを以てする。
歴史上、攻めるときは風の様に疾く、燃ゆる火の勢いを以てする「動」だけの武将というのは数多く存在する。「孫子の兵法」でも、武田信玄の風林火山と同じく、戦う上で肝心なことは「静」の作戦行動であり、攻撃を中断する時は林の様に静かに、次の機会を待ち山の様に動かないことが大事だと訓えている。
動いてならぬ時に動いて失敗するというのは往往にして在ることで、「風林火山」とは軽挙妄動の戒めでもある。武田軍が無敵と言われたのもこの「静」の為であり、人生に於いても軽挙妄動の戒めというのは当て嵌まるとは思うが如何だろう。
武田信玄の名言では、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」というものがある。だが、どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることは出来ない。情けは人を繋ぎ留め、結果として国を栄えさせる。だが、仇を増やせば国は滅びるという意味だ。そういう信条から信玄はこう諭す。
「凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。
その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。
喩へ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。
全て戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」
善いことと、悪いこととは表裏一体であり、掌の表と裏の関係でもある。「山高ければ谷深し」と言うではないか。悪いことが起きた時は慌てずじっと肝を据え、軽挙妄動を戒めて、目の前の艱難を有り難いと思い逆に愉しむべし。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
この様に川というのは紆余曲折であって、なだらかな流れもあれば激流もある。舟で下ったとしても滝に出くわしたり、ダムで堰き止められてたり。カヌーやカヤックで下ったとしても、それを運ばなきゃならない場所もある。
雨が降れば増水し、その姿を一変したり。移り変わる風景もそうした流れがあるから心に響く。人生もそれと同じで「紆余曲折」というものを理解しないと失敗の基となるし、失敗や試練を経験してない人というのはどこか魅力も削がれる。
政治も然りで、右に行ったり左を向いたり。ここで大事なのはその流れの最後に辿る場所である。果たしてどんな処なのか理解しているかが重要となる。
大局に立ってその流れを見定める目を養わなくてはならないが、我が国の政治を見る時、果して今、その川がどんな場所でどちらを向いているのか、なだらかなのか、激流なのか、悲しい哉、我が国の政治家にそれが見えているとは思えない。
激流に流され慌てたり、少しばかりのことで驚く様であれば大将の器は無い。困ったこと、悪いことが起これば右往左往してる様じゃ先が思い遣られるし、ロクな結果を生まない。困難が起これば、立ち止まって状況を冷静に見極めることだ。
試練は必ず終わる。腰を据えて対策を考えればその暗闇から微かではあるが光が見えて来るし、光が見えれば勇気も湧いてくる。決して慌てて動かないことが肝要。故野村秋介の「熱い風呂に入ってる時はじっとしていろ」とは蓋し名言である。
武田信玄の「風林火山」は「疾如風、徐如林、侵掠如火、不動如山」の句の原文は、「故其疾如風、其徐如林、侵掠如火、難知如陰、不動如山、動如雷霆」。
「(故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しず)かなること林の如く、侵掠(しんりゃく)すること火の如く、知りがたきこと陰の如く、動かざること山の如く、動くこと雷霆(らいてい)の如し)」と読む。ここで注目すべきは作戦行動に於ける「動」と「静」の対比。攻めるときは風の様に疾く、燃ゆる火の勢いを以てする。
歴史上、攻めるときは風の様に疾く、燃ゆる火の勢いを以てする「動」だけの武将というのは数多く存在する。「孫子の兵法」でも、武田信玄の風林火山と同じく、戦う上で肝心なことは「静」の作戦行動であり、攻撃を中断する時は林の様に静かに、次の機会を待ち山の様に動かないことが大事だと訓えている。
動いてならぬ時に動いて失敗するというのは往往にして在ることで、「風林火山」とは軽挙妄動の戒めでもある。武田軍が無敵と言われたのもこの「静」の為であり、人生に於いても軽挙妄動の戒めというのは当て嵌まるとは思うが如何だろう。
武田信玄の名言では、「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」というものがある。だが、どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることは出来ない。情けは人を繋ぎ留め、結果として国を栄えさせる。だが、仇を増やせば国は滅びるという意味だ。そういう信条から信玄はこう諭す。
「凡そ軍勝五分を以て上となし、七分を以て中となし、十分を以て下と為す。
その故は五分は励を生じ七分は怠を生じ十分は驕を生じるが故。
喩へ戦に十分の勝ちを得るとも、驕を生じれば次には必ず敗るるものなり。
全て戦に限らず世の中の事この心掛け肝要なり」
善いことと、悪いこととは表裏一体であり、掌の表と裏の関係でもある。「山高ければ谷深し」と言うではないか。悪いことが起きた時は慌てずじっと肝を据え、軽挙妄動を戒めて、目の前の艱難を有り難いと思い逆に愉しむべし。呵呵。
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cordial8317 at 05:27│Comments(0)
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