議員とは奉仕活動であり究極のボランティア活動であると認識すべし!舛添ネタを傍観しながら何事も男の引き際は熟熟大事だなぁと痛感する

2016年06月13日

新聞休刊日は手持無沙汰というか隔靴掻痒の感は否めない

 今日は新聞休刊日。昔はそんなになかったと思うが、最近は、新聞販売店の慰労・休暇の目的ということで毎月の様にある。いつも朝4時頃に起床し玄関のポストから新聞を取ることから始まる日課なので、新聞休刊日は手持無沙汰というか隔靴掻痒の感は否めない。

 現代に於いては「ニュースなんてネットで見れるじゃないか」と言われるが、やはり新聞の活字から読み取るのが好いし、ホッとする。昔は何紙も購読していたこともあるが、基本は地元紙の福島民報新聞を愛読。民報新聞社は自由民権運動の流れを汲む新聞社で、同じく地元紙の福島民友新聞よりも硬派な内容で気に入っていた。

 だが、原発事故以来、県民に寄り添った内容というより、被害者意識からか、反原発派に阿る記事が多くなり、その主張も安っぽい幼稚なものに成り下がってしまったので30年来の購読を止めた。暫くはコンビニでスポーツ紙などを買って競馬や競輪の予想に役立てていたが、今は産経新聞のみを購読している。

 産経新聞の主張はストレスなく読めるのが好いが、産経新聞ばかりを読んでいると考えも偏ってしまうのも確か。親米保守派や自称愛国者らは頻りに朝日新聞やテレビ朝日などの主張に噛付き批判するが、朝日新聞社は株式会社であり、利潤を追求する中で、リベラルの読者らに媚びる記事を書くのは当然のことでもある。

 読者に保守派の多い産経新聞がタカ派的主張をするのもこれと同じことで、サラリーマンの新聞記者諸侯らに公正や公平を求めることは無理というものだろう。但し、彼らには「社会の木鐸」としての矜持が備えてなくてはならず、「木鐸の努め」とは、世人に警告を発し、教え導くことにある。

 だが、どうみても、未だ自虐史観から目覚めることなく中韓に媚び諂い、我が国の国柄や国體を崩壊させんが為にそれらの走狗と化してしまっているのが現状で、「社会の木鐸」には程遠い。

 嘗て、坂の上の雲を追い続けたあの時代、国民の側に立ち「自由民権」を主張した新聞や言論人は、「反骨」を旨とし、権力に対して敢然と闘い、大衆の代弁者を自負していた。時の権力は、新聞社や記者を弾圧するも、彼らはジャーナリズムの矜持と使命を以て決して弾圧に怯むことはなかったのだ。
 
 今や正統ジャーナリズムは存在せず、権力への批判は単なるパフォーマンスと化し、民衆に迎合して、何でも腐して終わり。悲しいかな、そうした冷笑的な態度こそが真のジャーナリズムだと錯覚してしまっている。

 我が国の政治が未だ三流と揶揄され続けるのは、何か問題が出ればその萌芽は我が国に在ると政権を糾弾し、国民を導くことなく、世論をぶち壊して悦に浸っている進歩の無い低能ジャーナリズムこそが元凶でもある。自分で読み取り、自分で判断する正しい眼を養わなくてはならない。

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cordial8317 at 08:41│Comments(0)

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