2021年02月10日
本日2月10日は「日露戦争」の開戦記念日である
15世紀に始まる「大航海時代」以降、白人による世界制覇(植民地支配)の滔々たる流れがアジアにも押し寄せると、危機感を募らせた我が国は、国内統一に向けて明治維新を成し遂げると、近代国家の建設を急いだ。
そんな極東アジアが危機的情勢であるのに隣国の李氏朝鮮はその意味も分からず、相変わらず我が国を蔑視し続け、清の属国から独立を果たすことはなかった。
当時、我が国ではロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を勢力下に納める必要との意見が大勢を占めていた。そんな中、朝鮮を属国としていた清と、朝鮮に独立を促す我が国との間で諍いが起き、終に「日清戦争」が勃発する。
大国・清との戦いで我が国が勝利するも、朝鮮は独立を果たさすことはなく、敗戦した清も崩壊し、その広大な領土は世界の国々に次々と蚕食されて行った。
日清戦争での勝利に因って「台湾」「澎湖諸島」「遼東半島」が我が国に割譲されることとなった。だが、これをロシア、フランス、ドイツの介入によって、遼東半島は清に返還されることとなった。これが所謂「三国干渉」である。
因みに、三国干渉での遼東半島のみ返還が成された。つまり「台湾と澎湖諸島は国際法上は未だ我が国の領土である」という意見があるのを紹介しておこう。
三国干渉で遼東半島が返還されると、清と「露清密約」を結んでいたロシアは、我が国が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借すると、直ちに旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を謀ろうとする。
清で発生した「義和団の乱(義和団事変、義和団事件)」の混乱収拾を理由にロシアは満洲へ侵攻し、全土を占領下に置くこととなって行った。
当時、国内では、伊藤博文を始め「日露戦争回避派」が大勢を占めていたが、徐々に「ロシアとの開戦已む無し」の声は大きくなり、明治37年2月8日、旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊に日本海軍駆逐艦が奇襲攻撃に至った。
同日、日本陸軍先遣部隊が朝鮮の仁川に上陸。翌9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ。この「仁川沖海戦」でロシアとの火蓋が切られ、翌10日、ロシアに宣戦布告。
その後の戦いも熾烈を極め、「黄海海戦」「遼陽会戦」「旅順攻略」「奉天会戦」と、生死を分ける戦いが行われ、明治38年5月27日から28日にかけて繰り広げられた「日本海海戦」で我が国が起死回生の劇的大勝利を収めることになる。
「樺太攻略」も日露戦争の延長であり、樺太を全占領した我が国はその後の「ポーツマス条約」の講和によって南樺太の主権を有することとなる。この事実からも「北方四島」返還運動が如何に欺瞞に満ちたものであるかが分かるというものだろう。
「開戦記念日」というと、真珠湾攻撃に至る12月8日を思い浮かべる人が殆どだろうが、今日、2月10日は日露戦争の宣戦布告が成された「開戦記念日」である。
明治人は国家主権快復の為に気概と誇りを以て爽やかに戦った。現代を生きる我々は、道徳に優れ教養と武士道精神に長けていた明治人の覇気に学ばねばならない。
※コメントは煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント入力希望の方や御意見、メッセージは mr.cordial@live.jp へ御気軽にどうぞ。
〈会費&御支援〉みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ
そんな極東アジアが危機的情勢であるのに隣国の李氏朝鮮はその意味も分からず、相変わらず我が国を蔑視し続け、清の属国から独立を果たすことはなかった。
当時、我が国ではロシアに対する安全保障上の理由から、朝鮮半島を勢力下に納める必要との意見が大勢を占めていた。そんな中、朝鮮を属国としていた清と、朝鮮に独立を促す我が国との間で諍いが起き、終に「日清戦争」が勃発する。
大国・清との戦いで我が国が勝利するも、朝鮮は独立を果たさすことはなく、敗戦した清も崩壊し、その広大な領土は世界の国々に次々と蚕食されて行った。
日清戦争での勝利に因って「台湾」「澎湖諸島」「遼東半島」が我が国に割譲されることとなった。だが、これをロシア、フランス、ドイツの介入によって、遼東半島は清に返還されることとなった。これが所謂「三国干渉」である。
因みに、三国干渉での遼東半島のみ返還が成された。つまり「台湾と澎湖諸島は国際法上は未だ我が国の領土である」という意見があるのを紹介しておこう。
三国干渉で遼東半島が返還されると、清と「露清密約」を結んでいたロシアは、我が国が手放した遼東半島の南端に位置する旅順・大連を租借すると、直ちに旅順に太平洋艦隊の基地を造るなど、満洲への進出を謀ろうとする。
清で発生した「義和団の乱(義和団事変、義和団事件)」の混乱収拾を理由にロシアは満洲へ侵攻し、全土を占領下に置くこととなって行った。
当時、国内では、伊藤博文を始め「日露戦争回避派」が大勢を占めていたが、徐々に「ロシアとの開戦已む無し」の声は大きくなり、明治37年2月8日、旅順港に停泊していたロシア旅順艦隊に日本海軍駆逐艦が奇襲攻撃に至った。
同日、日本陸軍先遣部隊が朝鮮の仁川に上陸。翌9日、仁川港外にて同地に派遣されていたロシアの巡洋艦ヴァリャーグと砲艦コレーエツを攻撃し自沈に追い込んだ。この「仁川沖海戦」でロシアとの火蓋が切られ、翌10日、ロシアに宣戦布告。
その後の戦いも熾烈を極め、「黄海海戦」「遼陽会戦」「旅順攻略」「奉天会戦」と、生死を分ける戦いが行われ、明治38年5月27日から28日にかけて繰り広げられた「日本海海戦」で我が国が起死回生の劇的大勝利を収めることになる。
「樺太攻略」も日露戦争の延長であり、樺太を全占領した我が国はその後の「ポーツマス条約」の講和によって南樺太の主権を有することとなる。この事実からも「北方四島」返還運動が如何に欺瞞に満ちたものであるかが分かるというものだろう。
「開戦記念日」というと、真珠湾攻撃に至る12月8日を思い浮かべる人が殆どだろうが、今日、2月10日は日露戦争の宣戦布告が成された「開戦記念日」である。
明治人は国家主権快復の為に気概と誇りを以て爽やかに戦った。現代を生きる我々は、道徳に優れ教養と武士道精神に長けていた明治人の覇気に学ばねばならない。
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cordial8317 at 07:04│Comments(0)
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