2023年10月08日
秋祭り真っ盛り、心の奥底で日本人として自覚する一瞬でもある!
秋祭り真っ盛り、町内を山車や神輿が繰り出す光景は、祭りに興ずる人も、またそれを観る人々も、心の奥底で日本人として生まれた喜びを自覚する一瞬でもある。
普段、神様や仏様と縁の無い様な生活をしているが、正月には初詣に行き、結婚式では神前でその生涯を誓い合い、死んだとなれば仏式で弔いをする人は多いだろう。
日本人にとっての「宗教」とは、信じる信じないという以前に生活に密着したものとなっているのは確かだろう。祭りにしても神道の教え以前に、レクリエーションの様なものになってしまっているのも八百万の神の大らかさ故のことでもある。
祭りに拠って団結力が深まり、また若者は礼儀作法や長幼の序などを学ぶ。仲間と酒を酌み交わし、本能の儘に祭りに興じれば、神との繋がりを実感する。
だが、その反面で「神社とは何なのか」「氏神とはどういうことか」「鎮守が創建された謂れはどういうものなのか」ということを知る人は少ないのも確か。
こうしたことは、神道が宗教ではなく、宗教に必須である布教活動をしないところに原因がある。神主や禰宜(ねぎ)の努力の足りなさの結果であり、禰宜らにしても葬式坊主と同じ様に、祭りは単なるイベントなどと思ってはいないだろうか。
禰宜らは神社創建の趣旨や参拝の作法を教え、神道を啓蒙することは大事なことだ。神社での参拝が、寺の参拝と混同し、手を合わせ祈る光景に違和感を覚える。
二礼二拍手までは好いのだが、最後の一礼の際に手を合わせて祈ってる人が殆ど。二礼二拍手一礼を済ませてから、頭を垂れて感謝の誠や願を懸けるのが正式。
仏教でもどの宗教もそうであるが、特に神道では清浄という「禊(みそぎ)」を尊び重んじている。神様・仏様を拝むには心身を清めることが大事な作法である。
穢れを祓う為の場所が「手水舎(てみずや、ちょうずや)」。ここが「禊」の場であり、神社では最も重要な場所でもある。伊勢神宮では、橋が無かった時は参拝する為には必ず五十鈴川を渡り、参拝する者が自然に禊が出来る様になっていた。
現代では川で禊をしてから参拝するということが難しいので、神社の参道には「手水舎」が置かれおり、ここで身を清めることになっている。意外とこの手水舎を水飲み場と勘違いしてたり、手水舎を素通りして軽んじたりしてる人がいる。
祭りでは、神輿を上から覗く行為は禁止されているが、今は平気で二階から祭りの光景を眺めたりしているのは不敬と知るべし。また、禊もしない穢れた身体で神輿を担ぐなどとは愚の骨頂。最近では女性の神輿が流行りだが余り感心はしない。
別に女性に限らないが、三社祭なんかは刺青を見せびらかして神輿の上に乗り、御神体に尻を向けるなどは神への冒涜であるが、それを赦す日本の神の大らかさ。
神輿好きの女性から、「女性が担ぐ神輿はイミテーションで、御神体がある訳じゃないから神への冒涜には当たらない」と反論されたこともあるが、要は祭りもイベント化してしまって、祭り(祀り)の意味が失われつつあるのは間違いない。
女性神輿序でに言わせて貰えば、女性には生理がある。生理中、女性というのは情緒不安定になる。そうした女性の体調を気遣うのは当たり前のことでもあるし、生理は穢れでもある。皇室の神事の一つ「皇霊祭」でも、生理中は参加出来ない。
こうしたことをいうと、左翼や反天皇勢力から「生理は汚らわしいものではなく、女性蔑視だ」と反論も聞こえて来る。だが、これは何も皇室だけの例外ではない。
イスラム教では生理中にはモスクには入れないし、ユダヤ教でも生理中の女性との握手を禁じている。これは女性差別ではなく伝統の中で培った教えである。
「女系天皇論」は女性差別を理由に論じられているのだが、左翼や反天皇勢力というのは考えが偏向してるのもそうだが、物事の見方が実に薄っぺらいものばかり。
ならば聞くが、歴代ローマ公教に女性はいないし、公教を選ぶ枢機卿にさえ女性はいない。この事実こそ女性差別だし、バチカンに抗議したら如何か。日頃「レディーファースト」の国でもそういうもので、伝統を守るというのはそういうことだ。
天皇の歴史を遡れば、八人十代の女性天皇は存在したし、抑々、我が国の最高神である天照大御神は女性の神である。また女房のことを「山の神」と喩えるが、かみさん=神さんであり、やはり、女性に仕えるのはやはり男の方が好ましい(笑)
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
普段、神様や仏様と縁の無い様な生活をしているが、正月には初詣に行き、結婚式では神前でその生涯を誓い合い、死んだとなれば仏式で弔いをする人は多いだろう。
日本人にとっての「宗教」とは、信じる信じないという以前に生活に密着したものとなっているのは確かだろう。祭りにしても神道の教え以前に、レクリエーションの様なものになってしまっているのも八百万の神の大らかさ故のことでもある。
祭りに拠って団結力が深まり、また若者は礼儀作法や長幼の序などを学ぶ。仲間と酒を酌み交わし、本能の儘に祭りに興じれば、神との繋がりを実感する。
だが、その反面で「神社とは何なのか」「氏神とはどういうことか」「鎮守が創建された謂れはどういうものなのか」ということを知る人は少ないのも確か。
こうしたことは、神道が宗教ではなく、宗教に必須である布教活動をしないところに原因がある。神主や禰宜(ねぎ)の努力の足りなさの結果であり、禰宜らにしても葬式坊主と同じ様に、祭りは単なるイベントなどと思ってはいないだろうか。
禰宜らは神社創建の趣旨や参拝の作法を教え、神道を啓蒙することは大事なことだ。神社での参拝が、寺の参拝と混同し、手を合わせ祈る光景に違和感を覚える。
二礼二拍手までは好いのだが、最後の一礼の際に手を合わせて祈ってる人が殆ど。二礼二拍手一礼を済ませてから、頭を垂れて感謝の誠や願を懸けるのが正式。
仏教でもどの宗教もそうであるが、特に神道では清浄という「禊(みそぎ)」を尊び重んじている。神様・仏様を拝むには心身を清めることが大事な作法である。
穢れを祓う為の場所が「手水舎(てみずや、ちょうずや)」。ここが「禊」の場であり、神社では最も重要な場所でもある。伊勢神宮では、橋が無かった時は参拝する為には必ず五十鈴川を渡り、参拝する者が自然に禊が出来る様になっていた。
現代では川で禊をしてから参拝するということが難しいので、神社の参道には「手水舎」が置かれおり、ここで身を清めることになっている。意外とこの手水舎を水飲み場と勘違いしてたり、手水舎を素通りして軽んじたりしてる人がいる。
祭りでは、神輿を上から覗く行為は禁止されているが、今は平気で二階から祭りの光景を眺めたりしているのは不敬と知るべし。また、禊もしない穢れた身体で神輿を担ぐなどとは愚の骨頂。最近では女性の神輿が流行りだが余り感心はしない。
別に女性に限らないが、三社祭なんかは刺青を見せびらかして神輿の上に乗り、御神体に尻を向けるなどは神への冒涜であるが、それを赦す日本の神の大らかさ。
神輿好きの女性から、「女性が担ぐ神輿はイミテーションで、御神体がある訳じゃないから神への冒涜には当たらない」と反論されたこともあるが、要は祭りもイベント化してしまって、祭り(祀り)の意味が失われつつあるのは間違いない。
女性神輿序でに言わせて貰えば、女性には生理がある。生理中、女性というのは情緒不安定になる。そうした女性の体調を気遣うのは当たり前のことでもあるし、生理は穢れでもある。皇室の神事の一つ「皇霊祭」でも、生理中は参加出来ない。
こうしたことをいうと、左翼や反天皇勢力から「生理は汚らわしいものではなく、女性蔑視だ」と反論も聞こえて来る。だが、これは何も皇室だけの例外ではない。
イスラム教では生理中にはモスクには入れないし、ユダヤ教でも生理中の女性との握手を禁じている。これは女性差別ではなく伝統の中で培った教えである。
「女系天皇論」は女性差別を理由に論じられているのだが、左翼や反天皇勢力というのは考えが偏向してるのもそうだが、物事の見方が実に薄っぺらいものばかり。
ならば聞くが、歴代ローマ公教に女性はいないし、公教を選ぶ枢機卿にさえ女性はいない。この事実こそ女性差別だし、バチカンに抗議したら如何か。日頃「レディーファースト」の国でもそういうもので、伝統を守るというのはそういうことだ。
天皇の歴史を遡れば、八人十代の女性天皇は存在したし、抑々、我が国の最高神である天照大御神は女性の神である。また女房のことを「山の神」と喩えるが、かみさん=神さんであり、やはり、女性に仕えるのはやはり男の方が好ましい(笑)
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cordial8317 at 04:42│Comments(0)
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