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2015年09月24日

西郷隆盛の本名は「西郷隆永」だったって知ってます?

 今日9月24日は西郷隆盛の命日。多くの人が西郷隆盛という違和感なく名前を使ってはいるが、本名は西郷隆永。「隆永」より「隆盛」の方が本名になってしまった感は否めないし、西郷隆永と表現したのではややこしくてしゃあない(笑)

 西郷隆盛(本名は隆永だが、以下隆盛で表記)というのは華やかな生涯に見えるが、その実は自殺未遂、二度の遠島処分、そして西南戦争と苦難続きの人生を送った人物でもあり、その生涯は常に死の影が付き纏っていたと言われている。

 それでも西郷は、「いつ死んだっていい。人事を尽くして天命を待つだけだ」という処生観を持ち、開き直って生きている様なところがあったという。

 私利私欲や保身とは無縁で、清濁併せ呑む器用さもなく、その大人格故に多くの信望を集め、また自分の死に際でさえ実に潔い人物だったというがどうだろう。「晋どん、もうよか!」という、この最後の言葉に西郷の生き様を現している。

 西郷どんというと、上野の西郷さんの銅像のイメージが強いが、いざ銅像落成の日に、それを目にした糸子夫人は、「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ」と落胆したという逸話でも分かる様に、西郷はもっと美形だったのだろう。

 西郷隆盛というと「大西郷」と称される様に豪快なイメージだが、意外に繊細な面もあり、或いは、徳川慶喜公を執拗に糾弾していた様に執拗な性格も見え隠れする。無血開城を成し遂げても会津藩を執拗に攻めていることでもそれが分かる。

 正式な名前は「西郷隆永」。「隆盛」というのは、実は父親の諱(いみな・名前)だったというから驚く。西郷は幼少の頃には「小吉」、元服すると「吉之介」、その後は「善兵衛」「吉兵衛」「三助(菊池源吾)」、大島三右衛門、大島吉之助、西郷吉之助と名乗る。菊池や大島と名乗ったのは島流し時代のことだった。

 何故に「隆永」ではなく「隆盛」になってしまったのか。明治2年、戊辰戦争の奥羽戦線から帰京させる際に、宮内庁から御召状が出されることになった。

 通称ではなく諱で記さねばならず、知人の吉井友実に尋ねたところ、「確か、隆盛じゃった」と答えことで、以後、「隆盛」と称されることとなったという。

 帰京して、その吉井に会った西郷は、「あれ(隆盛)は父の名でごわんか。わしの名は隆永じゃと、おはんも知っちょるじゃろう」というと、吉井も頭を掻きながら、「ほんにそうじゃった」と詫び、二人は顔を合わせて大笑いしたという。

 その後、西郷はこの父の名前である「隆盛」という名を否定も訂正もしなかったのは、吉井への気遣いと、西郷の大らかさを示す逸話には違いない。

 不思議なことに西郷には写真が一枚も残されていない。上野公園の西郷隆盛像というのは、実弟の西郷従道と従弟の大山巌を合わせて創った想像の人物である。

 糸子夫人は、西郷をして「俳優のような好い男だった」とのろけていたというし、実際の西郷というのは、眉太く、黒目がちの美しい目をした色白の美男子だったというのが真相だろう。完成した銅像を見た糸子夫人の落胆は想像するに余りある。

 徳川慶喜公の恭順と勝海舟との対談の結果である江戸城の無血開城に満足せず、代わりに会津藩を攻め落とすことで徳川時代終焉の象徴にした訳だが、福島県人の愚生としたら大西郷たるもの会津戦争をどうにか回避出来なかったものか。

 そこまで執拗に会津藩を攻め落とした西郷だったが、その後、自らの信念であった「征韓論」で大久保利通らと対立に至り、故郷の薩摩へ帰郷することとなった。

「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)に西郷が主宰する私学校生徒の暴動から「西南戦争」が勃発する。その指導者となるが、戦いに敗れた西郷は城山で自刃した。

 西郷の自裁という事実をして、歴史というのは正義が常に正義ではなく、正義が敗れることもあるという一例であろう。歴史というのは実に異なものである。

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cordial8317 at 08:11│Comments(0)

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