2015年09月07日
「八十里こしぬけ武士の越す峠」(河井継之助)
幕末の英雄というと坂本龍馬や吉田松陰、西郷隆盛などが有名だが、愚生的には越後長岡藩の家老・河井継之助こそ最も尊敬する幕末の英雄である。
昨年の九月、継之助の生き様を偲びながら、終焉の地・只見町に在る記念館から新潟県長岡市へ戻る逆のコースを辿る旅を企画し実行するも無計画が徒となり、只見町から約40キロの新潟との県境付近で頓挫した。その顛末は此方ブログを御参考に! http://blog.livedoor.jp/cordial8317/archives/51953669.html
昨年は六十里峠を通ったが、次回は八十里峠の縦走をしたいが未定だ。まぁ一人じゃ無理だし、熊も出そうだし膝に不安を抱える身としては厳しいか。
慶応4(1968)年1月3日(新暦1月27日)、京都で鳥羽・伏見の戦いが勃発する。西軍は次第に勢力を強めて、3月には江戸城開城、上野寛永寺の戦いなどにも勝利し、最大の目標である会津を目指し北上する。7月、北越の地にも西軍が迫る。
長岡藩は、継之助の下、藩内を統一し「非武装中立」を貫こうとするも、西軍の岩村精一郎との会談が決裂し、継之助は東軍勢力として戦うことを決意する。
歴史に「もし」はないが、継之助と岩村の対談が成功していれば、また西軍が岩村の様な小僧ではなく、山縣有朋(狂二)か板垣退助、或いは西郷隆盛が直接対応していれば、「会津戦争」は避けられ、歴史も大きく変わっていただろう。
継之助率いる長岡藩は、奥羽列藩同盟に加わり「北越戦争」へと突入する。北越戊辰戦争に於いて、長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により、開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。
然し、圧倒的物量を有する西軍に比べ、兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(同7月8日)長岡城を奪われる。だが、その後の6月2日(同7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じると、7月24日(同9月10日)夕刻には敵の意表を突く「八丁沖渡沼作戦」を実施し、翌日に長岡城を再び奪還することに成功する。
これは軍事史に残る快挙であり、関東軍参謀で陸軍中将・石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は継之助のこの戦術を研究したものであるとされる。だが、この長岡城の奪還の代償は大きく、奪還を果たした当日、継之助は左膝下に被弾、重傷を負った。これにより長岡藩の士気が下がり、戦線は次第に後退して行った。
家臣や同士から「会津藩を頼り、会津で再起を図ろう」という進言を受けるも、故郷で死にたいとの思いから拒否する。だが、戦局は益々不利となり、継之助の傷も化膿が酷く、破傷風に罹ってしまい、已む無く会津での捲土重来を期すこととなった。
長岡から会津へは、国境の「八十里峠」を超えなければならなかった。実際には8里(約30キロ)程度の道のりなのだが、その山道は険しく、この「八十里峠」という名前がそれを現している。峠越えの途中、継之助は次の様な詩を詠んだ。
「八十里こしぬけ武士の越す峠」(こしぬけとは、「腰抜け」と「越後を抜ける」という意味で、継之助の洒落と悲しみが込められている)
8月5日(9月20日)、会津領の只見に入り、叶番所で休憩した後、只見村の目明し清吉宅に身を寄せ七日間を過ごす。8月12日(9月27日)に只見を出発するも、継之助の体調が芳しくなく、塩沢町の医師・矢沢宗益宅に留まる。
15日(30日)夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、「松蔵や、永永厄介して呉りやって有難かったでや」と、労いの言葉と共に死期を悟った継之助は火葬の仕度を命じた。「松蔵、火を熾(さかん)にせよ!」。この継之助の言葉が頭から離れない。
翌16日(10月1日)の昼に継之助は談笑した後、うとうとと眠り就くと危篤状態に陥った。再び目を覚ますことのない儘に同日午後8時頃死去した。享年42歳。
河井継之助終焉の家(矢澤家)は昭和36年、只見川電源開発による水没の為、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。そんな訳で、放浪の旅に出たいという衝動に駆られる今日この頃です。誰か同道しませんか。呵呵
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
昨年の九月、継之助の生き様を偲びながら、終焉の地・只見町に在る記念館から新潟県長岡市へ戻る逆のコースを辿る旅を企画し実行するも無計画が徒となり、只見町から約40キロの新潟との県境付近で頓挫した。その顛末は此方ブログを御参考に! http://blog.livedoor.jp/cordial8317/archives/51953669.html
昨年は六十里峠を通ったが、次回は八十里峠の縦走をしたいが未定だ。まぁ一人じゃ無理だし、熊も出そうだし膝に不安を抱える身としては厳しいか。
慶応4(1968)年1月3日(新暦1月27日)、京都で鳥羽・伏見の戦いが勃発する。西軍は次第に勢力を強めて、3月には江戸城開城、上野寛永寺の戦いなどにも勝利し、最大の目標である会津を目指し北上する。7月、北越の地にも西軍が迫る。
長岡藩は、継之助の下、藩内を統一し「非武装中立」を貫こうとするも、西軍の岩村精一郎との会談が決裂し、継之助は東軍勢力として戦うことを決意する。
歴史に「もし」はないが、継之助と岩村の対談が成功していれば、また西軍が岩村の様な小僧ではなく、山縣有朋(狂二)か板垣退助、或いは西郷隆盛が直接対応していれば、「会津戦争」は避けられ、歴史も大きく変わっていただろう。
継之助率いる長岡藩は、奥羽列藩同盟に加わり「北越戦争」へと突入する。北越戊辰戦争に於いて、長岡藩兵は近代的な訓練と最新兵器の武装を施されており、継之助の巧みな用兵により、開戦当初では新政府軍の大軍と互角に戦った。
然し、圧倒的物量を有する西軍に比べ、兵力に劣る長岡軍は徐々に押され始め、5月19日(同7月8日)長岡城を奪われる。だが、その後の6月2日(同7月21日)、今町の戦いを制して逆襲に転じると、7月24日(同9月10日)夕刻には敵の意表を突く「八丁沖渡沼作戦」を実施し、翌日に長岡城を再び奪還することに成功する。
これは軍事史に残る快挙であり、関東軍参謀で陸軍中将・石原莞爾の陸軍大学校における卒業論文は継之助のこの戦術を研究したものであるとされる。だが、この長岡城の奪還の代償は大きく、奪還を果たした当日、継之助は左膝下に被弾、重傷を負った。これにより長岡藩の士気が下がり、戦線は次第に後退して行った。
家臣や同士から「会津藩を頼り、会津で再起を図ろう」という進言を受けるも、故郷で死にたいとの思いから拒否する。だが、戦局は益々不利となり、継之助の傷も化膿が酷く、破傷風に罹ってしまい、已む無く会津での捲土重来を期すこととなった。
長岡から会津へは、国境の「八十里峠」を超えなければならなかった。実際には8里(約30キロ)程度の道のりなのだが、その山道は険しく、この「八十里峠」という名前がそれを現している。峠越えの途中、継之助は次の様な詩を詠んだ。
「八十里こしぬけ武士の越す峠」(こしぬけとは、「腰抜け」と「越後を抜ける」という意味で、継之助の洒落と悲しみが込められている)
8月5日(9月20日)、会津領の只見に入り、叶番所で休憩した後、只見村の目明し清吉宅に身を寄せ七日間を過ごす。8月12日(9月27日)に只見を出発するも、継之助の体調が芳しくなく、塩沢町の医師・矢沢宗益宅に留まる。
15日(30日)夜、継之助は従僕の松蔵を呼ぶと、「松蔵や、永永厄介して呉りやって有難かったでや」と、労いの言葉と共に死期を悟った継之助は火葬の仕度を命じた。「松蔵、火を熾(さかん)にせよ!」。この継之助の言葉が頭から離れない。
翌16日(10月1日)の昼に継之助は談笑した後、うとうとと眠り就くと危篤状態に陥った。再び目を覚ますことのない儘に同日午後8時頃死去した。享年42歳。
河井継之助終焉の家(矢澤家)は昭和36年、只見川電源開発による水没の為、現在は福島県只見町の河井継之助記念館内に移築されている。そんな訳で、放浪の旅に出たいという衝動に駆られる今日この頃です。誰か同道しませんか。呵呵
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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cordial8317 at 08:35│Comments(0)
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