2023年07月27日
風に散る 露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末(丹羽一学)
戊辰戦争は西軍と東軍の戦いであり、「官軍」と「賊軍」が戦った訳ではない。だが、靖國神社の現状でも分かる通り、未だ賊軍の汚名は雪がれることはない。
幕末の慶応4年、西軍に因る会津征伐に於いて二本松藩家老・丹羽一学は、「敗戦は必定なれど、三春に倣うべからず。二本松は、城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも、武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め上げた。同年7月27日、木村銃太郎隊長(当時22歳)に率いられた少年隊士23名が蹶起する。
会津藩白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対して、二本松藩少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳であった。会津武士道の昇華を白虎隊に例える声があるが、二本松少年隊の生き様も正しく二本松武士道の昇華そのものである。
銃太郎の率いる少年隊は、二本松城下西口の要衝である大壇口に布陣する。7月29日午前9時頃、少年隊は隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた大砲に拠って、終に幕末戦史に残る激戦が開始される。
「竹薮に一弾入るや、竹幹に当りて所謂外れ丸となりカラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て危険更に増さりぬ、余鉄砲を取直して打たんとすればこは如何に先に竹薮に駆け入りし時敵弾に引金を打貫かれて用をなさず、如何はせんとためらふ不図見付けたるは、砲車の側は横はれる一大木材なり、一抱えもありて長さは四五間に余れり。是れ屈竟の物なりと直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いざ戦況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云ふ声あり」(二本松少年隊記より)
二の腕に銃弾を受けた隊長・銃太郎は、迫り来る西軍を睨みつつ周囲の味方の陣の様子を窺ってみると、驚いたことに味方は既に退却した後で、少年隊は孤立の危機に直面していた。「今はこれまで」と銃太郎は即座に少年達に退却を命じる。
銃太郎は大砲の火門に釘を打ち込んで使用不能にした後、集合した彼らに次の指示しようと口を開きかけたその刹那、飛来した敵弾が銃太郎の腰を貫くと、銃太郎は腰から崩れ落ちた。自らの負傷の程度を確かめ、それが重傷だと悟った。
銃太郎は、「この傷では到底入城できない。早く我が首を斬れ」と、少年らに斬首する様に命じるが、仰天した少年達は互いに顔を見合すばかりだった。
「何をしておるか、早くこの首を斬るのだ」と銃太郎。
「隊長の傷は軽いです、私たちの肩につかまって退却してください」
「悪戯に押し問答している場合ではない。早く斬れ、早く!」
「しからば御免仕る」と、副隊長の二階堂衛守(33歳)が名乗り出る。
「忝い。後は頼みます」
「心得て候」
銃太郎の想いに応えた二階堂だったが、銃太郎の首を斬り落とすのに三回刀を振り下ろさねばならなかったという。二階堂も緊張の極みだったに違いない。
周りを取り囲んでいた少年達は、「隊長死んじまった、どうすっぺぇ」と号泣し乍らも棒っ切れや素手で土を掘り、銃太郎の遺骸を懇ろに葬ったという。
大壇口から退却して、次戦に備えようとした二階堂と岡山篤次郎は大隣寺近くで敵軍に狙撃され、腹部貫通の重傷を負った。篤次郎は、その狙撃した土佐藩の兵に拠って野戦病院だった称念寺に運び込まれるも13歳という短い生涯を閉じた。
土佐藩隊長広田弘道は篤次郎の勇敢さに感動し、最期まで決して屈しなかった魂に感激を熱くすると、「反(かえり)感状」を少年の遺骸の枕元に残した。
広田隊長の反感状の全文が、蓮華寺という寺の石碑に刻まれている。
「今年十三才にて戦死岡山篤次郎 敵ながらも甲斐々々敷美少年一色残し置次第
薩州土州の者憐みいたはりしかども蘇みかへらず 依てさしおくる一首
岡山尊公の名は幾世残れかし
君がため二心なき武士は
命はすてよ名は残るらん」
事実、篤次郎は眉目秀麗な美少年だったという。
二本松藩には代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」との刀法が伝わっている。これは赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介を討ち漏らしたことを聞いた二本松藩初代藩主丹羽光重が「何故、浅野公は斬りつけたのか。斬りつけずに突けばよかったものを!」と酷く悔しがったという由来から、「斬らずに突け」が伝統となった。
少年隊士・成田才次郎が、出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だったという。その才次郎、大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、単独で二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
「必ず敵将を斃してやる」と一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来た。長州藩士・白井小四郎が率いる部隊だった。
才次郎は長州藩の隊列が目前に来るまで充分に引き付け、「此処ぞ!」というところで、大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。
然し、歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。「子供じゃ、手を出すでない」と白井隊長。
白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き兵を制した。だがそれが徒となり、才次郎は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。白井が落馬。
驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ない。已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来た。
才次郎は14歳だった。現在、白井小四郎の墓が真行寺に残っている。維新後の明治3年、長州藩から香華料として金二両が納められた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの将の墓前には、今でも参詣者からの香華が絶えることはない。
少年隊の奮闘空しく、その日の内に二本松城は落城してしまう。この事実を以て、二本松藩への罵詈を浴びせる歴史家もいるが、歴史的事実はそんな簡単なものでは語れない。戊辰の役で戦った藩は多かれど、一藩玉砕したのは二本松藩だけである。
圧倒的な武力を前に「東北列藩の信を以て滅びよう」と義を貫いた。当時、西軍隊長だった板垣退助も、「一藩挙って身命を擲(なげう)ち、斃れて後已むまで戦い抜く、武士道の精髄を尽くしたのは二本松を以て最上とする」と讃えている。
幕末の薩摩藩士で陸軍元帥の野津道貫は、回顧談で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と語っている。(近世国民史)
西軍が城下に迫ったと聞くや、城中にあった大城代・内藤四郎兵衛は、「我は城の主将たり、むなしく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出、奮戦激闘の中、見事な最期を遂げた。四郎兵衛の最期は二本松藩士の鑑と称されている。
丹羽和左衛門は、床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたという。徹底抗戦を唱えた家老・丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎、城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げた。
「風に散る露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末」(丹羽一学辞世)
少年隊を始め、二本松藩士や先人が名誉を守る為に堂々と戦い潔く散った。こうした純真無垢な精神は、大東亜戦争で散って行った英霊と通ずるものが在るだろう。
二本松に生まれ育ち、また二本松剣友会の末席を汚した愚生として少年隊は郷土の誇りであり、その生き様に感謝すると共に先人の覇気に学ばねばならない。
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幕末の慶応4年、西軍に因る会津征伐に於いて二本松藩家老・丹羽一学は、「敗戦は必定なれど、三春に倣うべからず。二本松は、城が灰燼に帰し、一族屍を野に曝すとも、武士道と信義に殉ずべきである」と、藩論を徹底抗戦に纏め上げた。同年7月27日、木村銃太郎隊長(当時22歳)に率いられた少年隊士23名が蹶起する。
会津藩白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに対して、二本松藩少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳であった。会津武士道の昇華を白虎隊に例える声があるが、二本松少年隊の生き様も正しく二本松武士道の昇華そのものである。
銃太郎の率いる少年隊は、二本松城下西口の要衝である大壇口に布陣する。7月29日午前9時頃、少年隊は隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かい、銃太郎の号令一下、轟然と火を吹いた大砲に拠って、終に幕末戦史に残る激戦が開始される。
「竹薮に一弾入るや、竹幹に当りて所謂外れ丸となりカラカラと物凄き音を立て飛び去るを以て危険更に増さりぬ、余鉄砲を取直して打たんとすればこは如何に先に竹薮に駆け入りし時敵弾に引金を打貫かれて用をなさず、如何はせんとためらふ不図見付けたるは、砲車の側は横はれる一大木材なり、一抱えもありて長さは四五間に余れり。是れ屈竟の物なりと直に其木材にひたと許りに伏し附き、是れにて大安心いざ戦況を窺はんとせし刹那、隊長打たれたりと云ふ声あり」(二本松少年隊記より)
二の腕に銃弾を受けた隊長・銃太郎は、迫り来る西軍を睨みつつ周囲の味方の陣の様子を窺ってみると、驚いたことに味方は既に退却した後で、少年隊は孤立の危機に直面していた。「今はこれまで」と銃太郎は即座に少年達に退却を命じる。
銃太郎は大砲の火門に釘を打ち込んで使用不能にした後、集合した彼らに次の指示しようと口を開きかけたその刹那、飛来した敵弾が銃太郎の腰を貫くと、銃太郎は腰から崩れ落ちた。自らの負傷の程度を確かめ、それが重傷だと悟った。
銃太郎は、「この傷では到底入城できない。早く我が首を斬れ」と、少年らに斬首する様に命じるが、仰天した少年達は互いに顔を見合すばかりだった。
「何をしておるか、早くこの首を斬るのだ」と銃太郎。
「隊長の傷は軽いです、私たちの肩につかまって退却してください」
「悪戯に押し問答している場合ではない。早く斬れ、早く!」
「しからば御免仕る」と、副隊長の二階堂衛守(33歳)が名乗り出る。
「忝い。後は頼みます」
「心得て候」
銃太郎の想いに応えた二階堂だったが、銃太郎の首を斬り落とすのに三回刀を振り下ろさねばならなかったという。二階堂も緊張の極みだったに違いない。
周りを取り囲んでいた少年達は、「隊長死んじまった、どうすっぺぇ」と号泣し乍らも棒っ切れや素手で土を掘り、銃太郎の遺骸を懇ろに葬ったという。
大壇口から退却して、次戦に備えようとした二階堂と岡山篤次郎は大隣寺近くで敵軍に狙撃され、腹部貫通の重傷を負った。篤次郎は、その狙撃した土佐藩の兵に拠って野戦病院だった称念寺に運び込まれるも13歳という短い生涯を閉じた。
土佐藩隊長広田弘道は篤次郎の勇敢さに感動し、最期まで決して屈しなかった魂に感激を熱くすると、「反(かえり)感状」を少年の遺骸の枕元に残した。
広田隊長の反感状の全文が、蓮華寺という寺の石碑に刻まれている。
「今年十三才にて戦死岡山篤次郎 敵ながらも甲斐々々敷美少年一色残し置次第
薩州土州の者憐みいたはりしかども蘇みかへらず 依てさしおくる一首
岡山尊公の名は幾世残れかし
君がため二心なき武士は
命はすてよ名は残るらん」
事実、篤次郎は眉目秀麗な美少年だったという。
二本松藩には代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」との刀法が伝わっている。これは赤穂藩主浅野内匠頭が吉良上野介を討ち漏らしたことを聞いた二本松藩初代藩主丹羽光重が「何故、浅野公は斬りつけたのか。斬りつけずに突けばよかったものを!」と酷く悔しがったという由来から、「斬らずに突け」が伝統となった。
少年隊士・成田才次郎が、出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だったという。その才次郎、大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、単独で二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
「必ず敵将を斃してやる」と一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来た。長州藩士・白井小四郎が率いる部隊だった。
才次郎は長州藩の隊列が目前に来るまで充分に引き付け、「此処ぞ!」というところで、大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に先頭の白井に向って突進した。
然し、歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。「子供じゃ、手を出すでない」と白井隊長。
白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き兵を制した。だがそれが徒となり、才次郎は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。白井が落馬。
驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、刀を振り回す才次郎に近寄ることも出来ない。已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来た。
才次郎は14歳だった。現在、白井小四郎の墓が真行寺に残っている。維新後の明治3年、長州藩から香華料として金二両が納められた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの将の墓前には、今でも参詣者からの香華が絶えることはない。
少年隊の奮闘空しく、その日の内に二本松城は落城してしまう。この事実を以て、二本松藩への罵詈を浴びせる歴史家もいるが、歴史的事実はそんな簡単なものでは語れない。戊辰の役で戦った藩は多かれど、一藩玉砕したのは二本松藩だけである。
圧倒的な武力を前に「東北列藩の信を以て滅びよう」と義を貫いた。当時、西軍隊長だった板垣退助も、「一藩挙って身命を擲(なげう)ち、斃れて後已むまで戦い抜く、武士道の精髄を尽くしたのは二本松を以て最上とする」と讃えている。
幕末の薩摩藩士で陸軍元帥の野津道貫は、回顧談で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と語っている。(近世国民史)
西軍が城下に迫ったと聞くや、城中にあった大城代・内藤四郎兵衛は、「我は城の主将たり、むなしく内に在って死すべきにあらず」と城門を開いて討って出、奮戦激闘の中、見事な最期を遂げた。四郎兵衛の最期は二本松藩士の鑑と称されている。
丹羽和左衛門は、床机に腰掛けて割腹し、膝上に広げた軍扇の上に自らの内臓を引き出して立亡していたという。徹底抗戦を唱えた家老・丹羽一学は、城の土蔵奉行宅で郡代見習・丹羽新十郎、城代・服部久左衛門と共に壮絶な割腹自刃を遂げた。
「風に散る露の我が身はいとはねど 心にかかる 君が行末」(丹羽一学辞世)
少年隊を始め、二本松藩士や先人が名誉を守る為に堂々と戦い潔く散った。こうした純真無垢な精神は、大東亜戦争で散って行った英霊と通ずるものが在るだろう。
二本松に生まれ育ち、また二本松剣友会の末席を汚した愚生として少年隊は郷土の誇りであり、その生き様に感謝すると共に先人の覇気に学ばねばならない。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円(月2500円)。法人120000円。協賛会員300000円~。
cordial8317 at 05:29│Comments(0)
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