2015年04月09日
異国の地で草生す屍となった御霊を鎮められ両国の友好が更に深まることを願って止まない

パラオ共和国は太平洋の浮かぶ小さな独立国。パラオの国旗は日の丸を模したものだ。パラオの人々は国旗制定に苦心した。逸話が遺されている。
私達は国旗の選択に相当苦労した。
応募者は悉く各島の人々であり、
それぞれの旗にパラオの歴史と伝統が込められていた。
だから、選考委員は真剣であった。選考に日数をかけた。
でも、最終的にこの旗に決まったのは、
日本の旗に一番似ていたので、最大の人気が集まった。
日の丸の部分を黄色にしたのは、月を現わす。
周囲の青地は海を意味する。
月は太陽が出ないと輝くことが出来ない。
つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持つ。
太陽とは日本のことである。
海に囲まれたパラオという国は、
日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのである。
我々はまた戦争中に、
日の丸を掲げて強大な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、
大きな魅力と尊敬を捧げている。
一万に及ぶ英霊たちは私達に、
勇気と国を想う心があれば、
アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのである。
天皇皇后両陛下は、平成17年のサイパン巡幸に続き、パラオ共和国で慰霊し、御霊を鎮められる。第二次世界大戦時には太平洋戦争のマリアナ・パラオ諸島の戦いに於いて「ペリリューの戦い」の中心地となり激しい戦闘が行われた地でもある。
歴代大統領には「ナカムラ」という名前の人もいる。面白いことに「クニオ」とか「マツタロウ」いった日本人風の名前が目立つ。これは、近代社会に仲間入りさせてくれた日本への感謝や愛着からだという。このパラオ共和国の国旗は「日の丸」を参考に創られた。白地ではなく青地に、やや中心より左にずれた黄色の丸である。
何故このような国旗なのか。ドイツの植民地であったパラオは、第一次世界大戦後、日本の委任統治領となった。日本軍は地元住民に厳しく接するも、産業、教育、文化の発展に大きな功績を残し、パラオの人々に多大な信頼を受けたのである。
パラオの人々は今でも「日本は厳しかった。しかし、我々に農業と、真面目に働くこと、そして嘘をつかないことを教えてくれた」と口々に語るという。
米軍約4万2000人が上陸したのは昭和19年9月15日。中川州男大佐率いる約1万2000人の日本軍が迎え撃つ。島民は別の島に退避していたが、米軍がパラオに迫ると、パラオの人々は「我々も日本人と一緒に戦う」と決意したという。然し、民間人に被害が出ることを懸念した中川大佐らはその申し出を許可することは無かった。
日本軍はそれまでの戦法を改め、要塞化した洞窟陣地などを利用しゲリラ戦法で持久戦に持ち込み、圧倒的な戦力を誇る米軍に大打撃を与えた。
この戦いは11月25日まで続いた。米国太平洋艦隊司令長官CW・ニミッツも驚嘆。この組織的な抵抗と戦術は、後の「硫黄島の戦い」へと引き継がれて行く。
因みに現地の人の「クニオ」とは、この中川州男大佐の名前であり、如何に慕われていたかが理解出来よう。この戦争で命を落した日本人をパラオの人々は泣きながら丁寧に埋葬した。日本人遺族が何時来てもいい様にと墓の掃除は今でも欠かさない。
戦後パラオは1994年の独立までの50年の間、米国が5統治したがパラオの人々の心に残っているのは「日本人」だったのだ。数年間の日本の統治が、パラオの人々の心に残したものがそれだけ大きかった。何が侵略戦争か。何が無駄死にか。先人の偉業に思いを馳せれば、今を生きる日本人として感謝せずにはいられない。
天皇皇后両陛下がこの地を巡幸遊ばされることは大きな意味がある。異国の地で草生す屍となった御霊を鎮められ、両国の友好が更に深まることを願って止まない。
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cordial8317 at 06:34│Comments(0)
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