大和国は丈夫の国にて、古は、おみなもますらおに、習えり。故、万葉集の歌は、凡丈夫のてぶり也「喪中につき年末年始の挨拶はご辞退させて頂きます」というが

2020年12月14日

時に元禄十五年十二月十四日、江戸の夜風をふるわせて響くは山鹿流儀の陣太鼓・・・

 実兄の十八番に「俵星玄播」がある。子供の頃から幾度となく聞かされた。その御蔭で門前の小僧ではないが、その歌詞(台詞)をよく覚えている(笑)

「時に元禄十五年十二月十四日、 江戸の夜風をふるわせて、 響くは山鹿流儀の陣太鼓、 しかも一打ち二打ち三流れ、思わずハッと立ち上がり、 耳を澄ませて太鼓を数え、おう、 正しく赤穂浪士の討ち入りじゃ、 助太刀するはこの時ぞ、 もしやその中に、昼間別れたあの蕎麦屋が居りわせぬか、名前はなんと今一度・・・」

 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日夜から翌朝にかけてとされているが、本来は旧暦であって、事実は、元禄16年1月30日。

 映画やテレビドラマでの討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、旧暦30日だと新月、三日月なので暗かったのではと推測する。

 旧暦は1年が13ヶ月、月の満ち欠けで「1ヶ月」を現した。月の周期は15日で太陽と同じ方向にある場合を新月(朔)、反対方向にある場合を満月(望)となる。

 古の日本人というのは、月の満ち引きで月日を数え、そして生活に生かし、実に自然と共に活き活きとしたロマンチックな生活を営んでいた様に思う。

 因みに、赤穂浪士が討ち入った30日は満月ということになるが、新暦表記の14日では新月となり暗かったのではあるまいか、と勝手に解釈している(笑)

 赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下(現・福島県会津若松市)生まれの山鹿素行(やまがそこう)。素行というと「山鹿流軍学の祖」として知られているが、江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人物でもある。

 山鹿の門人達が素行の談話を筆記した「山鹿語類」や、尊皇愛国の書として有名な「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」は日本人必読の著である。

「中朝事実」で素行は、当時の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠にして、「日本こそ万国に卓越した『中華・中国』と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張した人物としても有名である。

 王朝の度々変わった漢土に対し、「日本は天子の地位を侵すような不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫している」と、日本の卓越性を強調している。

 江戸時代の267年の中で、理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価されたのは、素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだと言っても好いだろう。

  一方で、忠臣蔵の討ち入りに主君の敵討ちなどという「大義」ではなく、単なる「打算」だと断じる批評家もいるのも確かで、先日、週刊誌で「赤穂浪士の討ち入りは『単なる逆恨み』である」との自説を唱える人の主張に括目した。

 その意見とは「大石内蔵助は忠義心によって討ち入らなければ大石家は山科で帰農し、そのまま埋もれただろうが、けれど吉良を討ち取った結果、子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられた」というもの。

 この事実をして「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」「吉良からすれば逆恨みと言う他なく、幕府の裁定は妥当」とか意見は様々だが、こういう批評は武士の美学というものを理解していない軽々しい戯言でしかない。

 愚生は別に赤穂浪士の行為を否定するものでもないし、殊更に賛美するものでもない。「葉隠」では、赤穂浪士の討ち入りに触れた部分がある。

「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」とは蓋し正論であろう。

  仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは即刻「やられたらやり返す」というのが本道で、事の「成否」は問題ではなく「成否」よりも行為自体に意味が在るという。そういう意味では内蔵助は「打算的」と言える。

 葉隠では、仇討ち計画性に疑問を呈した上で、赤穂武士を「上方の人間は小利口だから、世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑している。

 愚生は、こうした「葉隠」の批評に賛同しているが、赤穂浪士の討ち入りを日本人の美意識の表れと見るか打算的と見るか否かは夫々だろう。だが「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだ。

 我が故郷の二本松藩主の丹羽光重と赤穂藩の浅野内匠頭との逸話が遺されている。丹羽公は、吉良上野介を討ち損じたとの報に接し、「何故、浅野公は斬りつけたのか、斬りつけずに突けば好かったものを!」と、酷く悔しがったという。

 以来、二本松に於いては「斬らずに突け」が伝統となった。二本松少年隊の成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だった。

 才次郎、「必ず敵将を斃してやる」との一心で、一の丁の物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来るのが見えた。

 長州藩士・白井小四郎が率いる部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、大刀を真っ直ぐに構えるや、一気に白井に向って突進した。

 歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応する。白井隊長を護るべく馬前に出た兵に、白井は「子供じゃ、手を出すでない」と一喝。

 白井は、突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜き兵を制した。だが、それが徒となった。才次郎の剣は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。

 白井が落馬する。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが、才次郎に近寄ることも出来ず、手古摺った長州兵は已む無く鉄砲を使い、この小さな勇士を仕留めたという。白井が30歳、才次郎14歳だった。

 白井は地元の寺に懇ろに葬られた。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将の墓前には、今でも参詣者からの香華が絶えることはない。

 会津武士道の昇華を白虎隊に喩えるが、白虎隊よりも更に年少だった二本松少年隊は、正しく二本松武士道の昇華そのものであり、我が故郷の誇りである。

 浅野公と吉良公にしろ、幕末期の東軍と西軍にしろ、それは喩え敵味方と雖も、その生き様は今を生きる我々に何かを示唆しているのではなかろうか。今こそ先人の覇気と生き様に学ばねばならないと痛感する。合掌。

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cordial8317 at 07:38│Comments(0)

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