2022年11月25日
三島由紀夫が提起した戦後体制の虚妄とは一体何であったのか

三島由紀夫が市谷駐屯地で自裁する昭和45年11月25日の4ヶ月ほど前の7月7日、産経新聞夕刊に「私の中の二十五年」と題して、予言的な一文を寄せている。
その中で三島は、「これからの日本には大して希望を持てない」とした上で、「このまま行ったら日本はなくなってしまうと嘆き」、「・・・その代りに、無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう・・・」と、悲観的な我が国の将来と日本人の姿を予言した。三島が提起した戦後体制の虚妄とは一体何であったのか。
三島が携行した檄文には、「我々は戦後の経済的繁栄に現を抜かし、国の大本を忘れ国民精神を失ひ、本を正さずして末に走りその場凌ぎの偽善に陥り・・・政治は自己保身、権力欲、偽善のみに捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦汚辱は払拭されず誤魔化され、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを歯噛みしながら見ていなければならなかった・・・」と行動に至る心象を綴っている。
現在の我が国はどうだろう。無機質な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、経済的大国となり、三島の予言がズバリ的中したカタチとなった。「文化防衛論」の「反革命宣言」で三島はこう訴えてもいる。
「もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合に、例えたった一人の容共的な閣僚が入っても、もしこれが警察権力に手を及ぼすことが出来れは、忽ち警察署長以下の中堅下級幹部の首の挿げ替えを徐々に始め、或いは若い警官の中に細胞を潜ませ、警察を内部から崩壊させるであろう」と冒頭で記し、更にはこう宣言する。
「我々はあらゆる革命に反対するものではない。暴力的手段たると非暴力的手段たるとを問わず、共産主義を行政権と連結せしめようとするあらゆる企画、あらゆる行動に反対するものである。この連結の企画とは、所謂民主連合政権(容共政権)の成立及びその企画を含むことを言うまでもない。名目的たると実質的たるとを問わず、共産主義が行政権と連結するあらゆる態様に我々は反対するものである」
今、周りを見渡せば「SDGs」「男女共同参画社会」「LBGTQ」「外国人地方参政権付与」「住民基本法案」「夫婦別姓法案」「戸籍制度廃止法案」「人権救済法案」「女性天皇論」「女性宮家」などなど、カタチを変えた共産主義が次々と企画され行政権に入り込み、行政に連結され、更に深く食い込もうとしている。
「男女共同参画社会」とは共同参画ではなく、「共参社会」というのが正しく、つまりはカタチを変えた「共産社会」への実現が着々と実行されているのだ。
これらは全て共産党が推進し実行したのではない。総理府や中央官界に入り込んだ全共闘系と共産党系の過激な連中が共同謀議的に考案したものであり、それらを疑いも無く実行したのは自民党歴代政府である。これほどマヌケなことはない。
こうした共産主義者の謀った愚策により国體や国柄が破壊され続けている。つまりは、三島が悲観した予言より更に酷い状況に陥っているが現在の日本である。
これらに対峙するべき愛国陣営や右翼を見渡せば、営業保守と何ら変わり映えのない活動に終始し輝現状は、右翼人の立場にいる愚生も隔靴掻痒の感は否めない。
国家百年の大計を未だに米国を頼ることこそ敗戦汚辱そのもの。日本人自ら日本の歴史と伝統を潰して行くのを、歯噛みしながら見ていてはならないのだ。
旧来の思想や社会構造を打破するには常軌を逸した行動が求められる。その「正気の狂気」の行動こそが閉塞状況を打破する力に成り得るのである。三島由紀夫と森田必勝の行動こそが正気の狂気というものであり、究極の憂国の至情である。
全国の愛国者は、あらゆる困難に耐え、忍び難きを忍び、決して挫けることなく、初一念を貫いて、皇国日本の再建に邁進しようではないか。すめらぎいやさか。
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cordial8317 at 07:33│Comments(0)
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