2014年11月14日
日本語文化と日本の「和の心」を世界に伝えよう!
大分前のことだが、SNSの記事を読んでたら「皇室に『御』を付けるのは不敬!」というのがあり、「まさかそんなバカことはあるまい」と調べてみたら、不敬に当ることを知った。右翼人を自任する者として己の無学さに恥入るばかり。
敬語の中でも皇室用語は特に難しいが、戦後教育の悪影響で敬語そのものを知らない。皇室用語は学校で教わる機会もないし、尚更に理解不能になる。「御」の字は原則として「二重敬語」となるので敬語には使わないという。皇室用語で「御」の字が不要な語は「皇」の字が付く語。皇室、皇族、皇居、皇太子などが該当する。
その他は、例えば「天」(天覽・天機など)、「聖」(聖慮・聖旨・聖徳)、「叡」(叡覽・叡慮)、「勅」(勅語・勅命・勅旨・勅使)、「詔」(詔勅・詔書・大詔・優詔)、「宸」(宸翰・宸慮・宸襟)、「鳳」(鳳輦・鳳駕)、「玉」(玉體・玉座・玉歩)、「幸(みゆき)」(行幸・巡幸)、「啓」(行啓・還啓)、「下」(出御・入御)、「賜」(賜餐・賜謁・下賜・賜物)。「優諚」「令旨」「鹵簿」「台臨」「行在所」「納采」「臣籍降下」「臣籍降嫁」「祭粢料」「觀櫻會」「朝見」「謁見」「拜謁」など。皇族方には「御」の字は不要となる。
皇室尊崇の思いが強過ぎて、知らぬ間に「御」を付けてしまっている人が多いと思われるが、例えば「御皇室」は、敬語の用法の誤り(二重敬語)であり、見方を変えれば、「皇室」を「御皇室」と言い換えることは、「皇室」を尊敬の対象としていないと認識しているということにもなり兼ねないので注意が必要だという。
斯くいう愚生も、「御巡幸」や「御行幸」「御宸翰」や「御聖徳」「御詔勅」など使っていたが、細心注意しなくてはならないと猛省した次第であった。「行幸」は昔は「御幸」とも言っていたというし、一概に「御」が間違いということではないとも思うが、皇室に関することはきちんと教え、学び、使用した方が好ましい。
皇室への敬語が使われなくなって久しいが、これはマスコミに因る「敬称・敬語不使用」の影響は大きく、その悪害は国内に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせ、また「開かれた皇室論」の弊害は目に余るものがある。
売国マスコミに拠る「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせている要因を招いている。こうした風潮に釘を刺すべき保守派や愛国陣営までもが軽々しく皇室を語るマヌケさ。
天皇や皇族方への尊称不使用と敬称・敬語略運動は「反天皇運動」の一つでもある。そうしたことも理解していないで、マスコミが興味本位で垂れ流す皇室報道に与して騒いでいる保守派や自称愛国者らの無自覚ぶりとは絶望的である。
皇族方を「さま」と呼ぶことは、共産党への命令書の忠実な遂行でもある。本来の日本人ならば、「陛下」「皇后陛下」「上皇陛下」「上皇后陛下」「秋篠宮皇太弟」「親王殿下」「内親王殿下」「女王殿下」と正式な敬称で呼ぶべきである。
「さま」と呼ぶことに因って、我が国の万邦無比の国體の精華が喪失して行くことを自覚せよ。我が国は天皇陛下を族長と仰ぐ家族国家である。戦前の様に「畏れ多くも」と言わないまでも、きちんとした敬称を使い、敬語で語り、日本人として節度ある敬意を表するべきだ。皇室への敬称や敬語について考えなければならない。
「国際化社会での人材育成」という名の下で、英語教育を重視しているが、日本語の正しい使い方や、我が国の歴史・伝統・文化や国柄こそ教えるべきで、日本人が美しい日本語も知ることなく、正しい日本語も分からずに、況してや我が国の国體も国柄も知らずして、グローバル化だの、国際化などとは実に烏滸がましい。
バチカンでは「不浄な言葉」とされた英語が世界語になったのは、武力で世界を支配し、富を独占したからに他ならない。だが、世界では今、1000万人以上の人が日本語を学び始めているという。英語も結構なことだが、日本人として日本語文化を世界に普及し、日本の「和の心」を伝えることこそ必要なことではないのか。
明治の先覚者は、外来語を全て新漢字に翻訳し、西洋文化を学んだ。現代人の様に外来語をそのまま羅列し、軽薄な舶来趣味と比べれば、明治人の気骨と気概、高い見識を伺い知ることが出来る。これはつまり、日本人として日本語に自信を持ち、何事も日本語で主張し、日本文化を重んじ貫いたからこそ発展が得られたのだ。
嘗て我が国は「教育立国」として明期の試練と昭和の国難を乗り越えた。極貧の中から多くの偉人が輩出したのは立派な教育の故である。 然し、現在はどうだろう。
戦後教育を施された我が国は、国民の勤勉性、家族愛、愛国心、信義誠実の原則、心の中の高貴さを失い、高邁さを忘れてしまった。高邁な魂を喪失した日本人に必要なのは、英語教育や軽薄な舶来趣味ではなく日本の心を取り戻す教育である。
「国際化」とは、米国に擦り寄ることではない。世界国々の歴史・伝統・文化を互いに重んじて交流することである。真の国際人を創る意味でも、小学校では我が国の「神話」を教え、我が国の生い立ちや日本語の美しさと日本人の心の豊かさを学ばせ、子供の成長に従って我が国の誇るべき歴史や近代史を教えるべきだろう。
そうした教育も施さずに何が英語教育か。何が国際化社会への人材育成か。それこそ米国の価値観の押付けであり、更なる追米・従米、更なる属国化ではないか。こんなことをしていたら次には北京語やハングルを押付けられるぞ。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
敬語の中でも皇室用語は特に難しいが、戦後教育の悪影響で敬語そのものを知らない。皇室用語は学校で教わる機会もないし、尚更に理解不能になる。「御」の字は原則として「二重敬語」となるので敬語には使わないという。皇室用語で「御」の字が不要な語は「皇」の字が付く語。皇室、皇族、皇居、皇太子などが該当する。
その他は、例えば「天」(天覽・天機など)、「聖」(聖慮・聖旨・聖徳)、「叡」(叡覽・叡慮)、「勅」(勅語・勅命・勅旨・勅使)、「詔」(詔勅・詔書・大詔・優詔)、「宸」(宸翰・宸慮・宸襟)、「鳳」(鳳輦・鳳駕)、「玉」(玉體・玉座・玉歩)、「幸(みゆき)」(行幸・巡幸)、「啓」(行啓・還啓)、「下」(出御・入御)、「賜」(賜餐・賜謁・下賜・賜物)。「優諚」「令旨」「鹵簿」「台臨」「行在所」「納采」「臣籍降下」「臣籍降嫁」「祭粢料」「觀櫻會」「朝見」「謁見」「拜謁」など。皇族方には「御」の字は不要となる。
皇室尊崇の思いが強過ぎて、知らぬ間に「御」を付けてしまっている人が多いと思われるが、例えば「御皇室」は、敬語の用法の誤り(二重敬語)であり、見方を変えれば、「皇室」を「御皇室」と言い換えることは、「皇室」を尊敬の対象としていないと認識しているということにもなり兼ねないので注意が必要だという。
斯くいう愚生も、「御巡幸」や「御行幸」「御宸翰」や「御聖徳」「御詔勅」など使っていたが、細心注意しなくてはならないと猛省した次第であった。「行幸」は昔は「御幸」とも言っていたというし、一概に「御」が間違いということではないとも思うが、皇室に関することはきちんと教え、学び、使用した方が好ましい。
皇室への敬語が使われなくなって久しいが、これはマスコミに因る「敬称・敬語不使用」の影響は大きく、その悪害は国内に蔓延し、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせ、また「開かれた皇室論」の弊害は目に余るものがある。
売国マスコミに拠る「敬称・敬語不使用」や「開かれた皇室論」の姿勢は、天皇陛下や皇室に対する敬愛の念を薄れさせている要因を招いている。こうした風潮に釘を刺すべき保守派や愛国陣営までもが軽々しく皇室を語るマヌケさ。
天皇や皇族方への尊称不使用と敬称・敬語略運動は「反天皇運動」の一つでもある。そうしたことも理解していないで、マスコミが興味本位で垂れ流す皇室報道に与して騒いでいる保守派や自称愛国者らの無自覚ぶりとは絶望的である。
皇族方を「さま」と呼ぶことは、共産党への命令書の忠実な遂行でもある。本来の日本人ならば、「陛下」「皇后陛下」「上皇陛下」「上皇后陛下」「秋篠宮皇太弟」「親王殿下」「内親王殿下」「女王殿下」と正式な敬称で呼ぶべきである。
「さま」と呼ぶことに因って、我が国の万邦無比の国體の精華が喪失して行くことを自覚せよ。我が国は天皇陛下を族長と仰ぐ家族国家である。戦前の様に「畏れ多くも」と言わないまでも、きちんとした敬称を使い、敬語で語り、日本人として節度ある敬意を表するべきだ。皇室への敬称や敬語について考えなければならない。
「国際化社会での人材育成」という名の下で、英語教育を重視しているが、日本語の正しい使い方や、我が国の歴史・伝統・文化や国柄こそ教えるべきで、日本人が美しい日本語も知ることなく、正しい日本語も分からずに、況してや我が国の国體も国柄も知らずして、グローバル化だの、国際化などとは実に烏滸がましい。
バチカンでは「不浄な言葉」とされた英語が世界語になったのは、武力で世界を支配し、富を独占したからに他ならない。だが、世界では今、1000万人以上の人が日本語を学び始めているという。英語も結構なことだが、日本人として日本語文化を世界に普及し、日本の「和の心」を伝えることこそ必要なことではないのか。
明治の先覚者は、外来語を全て新漢字に翻訳し、西洋文化を学んだ。現代人の様に外来語をそのまま羅列し、軽薄な舶来趣味と比べれば、明治人の気骨と気概、高い見識を伺い知ることが出来る。これはつまり、日本人として日本語に自信を持ち、何事も日本語で主張し、日本文化を重んじ貫いたからこそ発展が得られたのだ。
嘗て我が国は「教育立国」として明期の試練と昭和の国難を乗り越えた。極貧の中から多くの偉人が輩出したのは立派な教育の故である。 然し、現在はどうだろう。
戦後教育を施された我が国は、国民の勤勉性、家族愛、愛国心、信義誠実の原則、心の中の高貴さを失い、高邁さを忘れてしまった。高邁な魂を喪失した日本人に必要なのは、英語教育や軽薄な舶来趣味ではなく日本の心を取り戻す教育である。
「国際化」とは、米国に擦り寄ることではない。世界国々の歴史・伝統・文化を互いに重んじて交流することである。真の国際人を創る意味でも、小学校では我が国の「神話」を教え、我が国の生い立ちや日本語の美しさと日本人の心の豊かさを学ばせ、子供の成長に従って我が国の誇るべき歴史や近代史を教えるべきだろう。
そうした教育も施さずに何が英語教育か。何が国際化社会への人材育成か。それこそ米国の価値観の押付けであり、更なる追米・従米、更なる属国化ではないか。こんなことをしていたら次には北京語やハングルを押付けられるぞ。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
cordial8317 at 05:32│Comments(0)
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