2021年06月05日
「シュガーキング」と呼ばれた松江春次を知ってますか?
「シュガーキング」呼ばれた日本人がいる。その男とは松江春次。角砂糖を作った人物である。台湾に烏山頭ダムを設計した八田興一の銅像が在るが、当時台湾は日本領であり、八田以外に外国で建てられた日本人の銅像は二人だけだという。
一人は黄熱病の研究で世界的に注目され野口英世博士、そしてもう一人は松江春次。野口英世博士の説明は要らないだろう。春次は、映画「バルトの楽園」で有名になった板東捕虜収容所所長・松江豊寿大佐の実弟である。二人共に福島県出身。
角砂糖製造で成功を収め「キング・オブ・シュガー 」と称された春次は、明治9年市内馬場町(現在の中央二丁目)に生まれ、会津中学(現会津高校)を卒業。
苦学して東京工業学校(現東京工業大学)応用化学科を卒業し大日本製糖に入社。春次はその後、米国ルイジアナ大学へ留学し砂糖科を卒業している。
その後、技術習得の為にヨーロッパへ出向し31歳で帰国し、そして角砂糖の製造に成功する。その後も製糖会社を転々とし台湾での製糖業で成功を収める。
それでも満足することなく、自身が描く南洋開発の夢の為に退社しサイパンへ渡る。当時、サイパンには5万人もの日本人が入植しており「南国の楽園」と言われた島だった。春次はこのサイパンで人類の共存を目指す夢に走り出す。
「南国の楽園」と言われたサイパン島だったが、ブラジル入植や戦後の北朝鮮帰還事業と同じく、実際には国の入植事業に失敗した日本人が生活に苦しんでいた。
サイパン島をくまなく調査し、製糖事業の成功を確信した春次は、生活に苦しむ日本人と地元の人々を救う為に「南洋興発株式会社」を設立し開拓に着手する。やがて製糖事業は大成功し、日本からも多くの入植者を迎えることとなった。
成功した春次は驕ることなく成金趣味を持たず、質素倹約を旨とする会津人らしく清貧な生活を続けた。「松江賞」というものを創設し、日本人や島人を問わず優秀な児童生徒に奨学金や教科書などを贈り若者の育英事業に私財を投じた。
春次は、自分の苦難の経験から「青年に投資する」を持論とし、自分の土地、株券を売却し、故郷の会津工業高校へ33万円(現在の数億円に相当)を寄付し、機械科を創設させ、多くの技術者が育ち、後に日本の成長に貢献することとなる。
会津白虎隊の悲劇は誰もが知るところだが、春次もまた日本の将来の為にも青年を育てなければという思いに駆られたのだろう。 だが、第二次世界大戦に巻き込まれ、真珠湾攻撃で大東亜戦争が勃発。激烈を極めた日本軍は終に敗走する。
サイパンの「バンザイクリフ」は、戦争の悲劇の象徴でもある。サイパンを占領した米軍は、戦前に建てられた「キング・オブ・シュガー・松江春次像」の倒壊を謀るが地元住民からの懇願で断念。春次が如何に慕われていたかが分かる逸話だ。
春次は、サイパン島の戦いの敗戦に因り財産の殆どを失ったが、砂糖製造を中心に開発事業に成功した優れた開拓者として今も尚語り伝えられている。野口英世もこの松江春次も、我が福島県が生んだ偉人であり英雄であり県民の誇りでもある。
晩年は、サイパンへの郷愁を抱きながら酒を酌み交わすことが楽しみだったという。春次は「生来無一物(しょうらいむいちぶつ)」との言葉を好んで揮った。「生来無一物」という言葉に激動の時代を生き抜いた春次の人となりを感じさせる。
菩提本無樹「菩提本(もと)樹(じゅ)無し」
明鏡亦非台「明鏡も亦台に非ず」
本来無一物「本来無一物(ほんらいむいちもつ)」
何処惹塵埃「何れの処にか塵埃(じんあい)を惹かん」
「生来(本来)無一物」とは禅の教えでもある。前出の詩の大意は「本来菩提には樹などという不変なものはない、明鏡という心もない。故に、本来無一物である。由って塵埃の溜まりようがないから払拭の必要もないではないか」というもの。
私心も無く、資産も財産も無くなった春次の自虐的洒落に渾身の悩みと満足感が窺える。斯くいう愚生に私財は無いが、春次の生き様に学びたいものだ。
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cordial8317 at 04:57│Comments(0)
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