2014年10月21日
靖國神社秋季例大祭と神風特別攻撃隊
19日の日曜日、靖國神社秋季例大祭に参列する為に上京。新幹線に乗り遅れたが、9時30分の受け付けにはぎりぎり間に合った。靖國神社で最も重要な祭事は、春秋に執り行われる例大祭。秋季例大祭は10月17日から20日までの4日間で、期間中、清祓・当日祭・第二日祭・第三日祭・直会の諸儀が斎行された。
春季例大祭と同様、当日祭には天皇陛下の勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上される。当日祭後は、第二日祭、第三日祭と祭儀が執り行われ、最終日には、例大祭が無事に終了することを感謝する「直会」が執り行われる。終身正会員らが順次招待されるが、愚生は「第二日祭」に参列。
参集殿から拝殿へ。隣り合わせた御夫婦の御主人は所謂「戦争孤児」と言われた方で、「我々ももう70過ぎ、(靖國の在り方を)どうにかしなければならないと思っています」などと語っていたのが印象的だった。そして10時、厳かに式は始まった。宮司以下本殿の座に著き、国学院吹奏楽部による伴奏に合わせ国歌斉唱。様々な式典で国歌斉唱を聴くが、この例大祭での斉唱より敵うものなし。
本殿では權宮司以下により神事が斎行されているが拝殿からは様子は窺えない。聞こえるのは小鳥の囀りと宮司の唱える祝詞、そして社頭で参拝する方々の柏手の音。
その後、国学院大学混声合唱団と共に「鎮魂歌」並びに「靖國神社の歌」を合唱。宮司玉串奉奠に続き、参拝者が本殿に進み拝礼、英霊に感謝の誠を捧げ、そして退出。式典は約1時間で終了。華美さはないが実にいい式典だった。
「第三日祭」が執り行われる翌、20日は皇后陛下の御生誕日。戦前の「地久節」。「10月20日」という日は、日本国民として実にめでたい日であるが、それと共に歴史的にも我々日本人が決して忘れてはならない特別な日でもある。
昭和19(1944)年10月20日、フィリピンのレイテ島に圧倒的勢力で上陸を図ろうとする米軍部隊へ帝国海軍は起死回生の反撃と連合軍の沖縄への上陸、本土決戦を阻止する為に大西瀧次郎中将の指令下「神風特別攻撃隊」が編成された。
祖国を守る為に死を決意して志願した特攻精神は、祖国愛の極致というべきもので大東亜戦争が自存の為の「祖国防衛戦争」だったことの何よりの証だろう。
沖縄戦でも特攻部隊が重要な役割を果たし、特攻戦死者の実に76%が沖縄戦。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1036名が散華された。特攻は航空部隊だけではなく、特殊潜航艇、回天魚雷、空挺特攻、対戦車特攻、震洋特攻艇、陸軍海上特攻など、劣勢を覆す為の特攻作戦でも3972名と、実に多くの若者が祖国日本の為に尊い命を捧げられたのだった。
特攻作戦をを「無駄死」だとか「可哀想」だとかいう声を散見するが、現在の道徳観や倫理観で生死を語るなど笑止千万。我が国の現在の平和や繁栄は、純真無垢な彼らの尊い犠牲の上に成り立ってるということを決して忘れてはならない。
また、20年前の平成5年10月20日には、右翼のカリスマ的指導者であった野村秋介が朝日新聞社で壮絶な死を遂げた。何故にこの日だったのかは、「特攻作戦と若者の命」という深い意味が込められていたということを後から知った。
理論家であり、何より行動派であり、押しも強く、幅広い人脈を持つ野村秋介の死は、新右翼に限らず右翼陣営全体にとっても大きな痛手だった。右翼陣営は未だに野村の死の影響から抜け出せずにいる。10月20日の思いが吾が脳裏に去来する。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
春季例大祭と同様、当日祭には天皇陛下の勅使が参向になり、天皇陛下よりの供え物(御幣物)が献じられ、御祭文が奏上される。当日祭後は、第二日祭、第三日祭と祭儀が執り行われ、最終日には、例大祭が無事に終了することを感謝する「直会」が執り行われる。終身正会員らが順次招待されるが、愚生は「第二日祭」に参列。
参集殿から拝殿へ。隣り合わせた御夫婦の御主人は所謂「戦争孤児」と言われた方で、「我々ももう70過ぎ、(靖國の在り方を)どうにかしなければならないと思っています」などと語っていたのが印象的だった。そして10時、厳かに式は始まった。宮司以下本殿の座に著き、国学院吹奏楽部による伴奏に合わせ国歌斉唱。様々な式典で国歌斉唱を聴くが、この例大祭での斉唱より敵うものなし。
本殿では權宮司以下により神事が斎行されているが拝殿からは様子は窺えない。聞こえるのは小鳥の囀りと宮司の唱える祝詞、そして社頭で参拝する方々の柏手の音。
その後、国学院大学混声合唱団と共に「鎮魂歌」並びに「靖國神社の歌」を合唱。宮司玉串奉奠に続き、参拝者が本殿に進み拝礼、英霊に感謝の誠を捧げ、そして退出。式典は約1時間で終了。華美さはないが実にいい式典だった。
「第三日祭」が執り行われる翌、20日は皇后陛下の御生誕日。戦前の「地久節」。「10月20日」という日は、日本国民として実にめでたい日であるが、それと共に歴史的にも我々日本人が決して忘れてはならない特別な日でもある。
昭和19(1944)年10月20日、フィリピンのレイテ島に圧倒的勢力で上陸を図ろうとする米軍部隊へ帝国海軍は起死回生の反撃と連合軍の沖縄への上陸、本土決戦を阻止する為に大西瀧次郎中将の指令下「神風特別攻撃隊」が編成された。
祖国を守る為に死を決意して志願した特攻精神は、祖国愛の極致というべきもので大東亜戦争が自存の為の「祖国防衛戦争」だったことの何よりの証だろう。
沖縄戦でも特攻部隊が重要な役割を果たし、特攻戦死者の実に76%が沖縄戦。鹿屋基地(海軍航空)からの特攻で1981名、知覧基地(陸軍航空)からの特攻で1036名が散華された。特攻は航空部隊だけではなく、特殊潜航艇、回天魚雷、空挺特攻、対戦車特攻、震洋特攻艇、陸軍海上特攻など、劣勢を覆す為の特攻作戦でも3972名と、実に多くの若者が祖国日本の為に尊い命を捧げられたのだった。
特攻作戦をを「無駄死」だとか「可哀想」だとかいう声を散見するが、現在の道徳観や倫理観で生死を語るなど笑止千万。我が国の現在の平和や繁栄は、純真無垢な彼らの尊い犠牲の上に成り立ってるということを決して忘れてはならない。
また、20年前の平成5年10月20日には、右翼のカリスマ的指導者であった野村秋介が朝日新聞社で壮絶な死を遂げた。何故にこの日だったのかは、「特攻作戦と若者の命」という深い意味が込められていたということを後から知った。
理論家であり、何より行動派であり、押しも強く、幅広い人脈を持つ野村秋介の死は、新右翼に限らず右翼陣営全体にとっても大きな痛手だった。右翼陣営は未だに野村の死の影響から抜け出せずにいる。10月20日の思いが吾が脳裏に去来する。
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cordial8317 at 05:01│Comments(0)
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