「朝日新聞」の虚言症留まる処を知らず。吉田昌郎所長の聴取結果所(吉田調書)も捏造!朝日新聞謝罪!過去の穢された歴史認識から脱却する機が熟しつつある

2014年09月10日

河井継之助の足跡を辿ろうと会津只見から越後へ遊歴するも無計画が徒に

1 河井
 幕末の英傑・河井継之助の足跡を辿ろうと、継之助終焉の地となった奥会津の只見町から八十里峠(鞍掛峠)を越して長岡へ向かう旅を計画し実行した。

 日曜日の早朝出発の予定だったが、前日の深酒と生憎の豪雨にやる気を削がれ二度寝した。が、10時過ぎ目覚めると外は晴天、急遽出発を決め駅に向かう。

 郡山駅から会津若松、只見線に乗り換えだが次の電車が出るのは3時間後。駅近くのスーパー銭湯で時間を潰し、夕方4時56分発の会津川口行きに乗った。

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 只見線は3年前の7月に起きた「新潟・福島豪雨」で橋が崩壊し、会津若松駅から会津川口駅まで終わり。ここから只見まで全線復旧の目途は立っていない。会津川口駅に着いたのは夜8時過ぎ、ここからバスに乗り換えて只見駅へ向かった。

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 只見に着いたのは夜の9時近くだったが、この日は夏祭りだったらしく町はまだ祭りの余韻で賑わっていた。駅前の「山六食堂」で、おすすめの生ラム焼と生ビールで軽く安着祝い。その後は、駅近くの広場にテントを設営して初日終了。就寝。

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 翌朝4時にテントを撤収し、身支度を整え、駅から終焉の地となった塩沢地区へ。墓へ参り、そこから国道289号線へ入り八十里峠越え。だがここで問題発生。

 周りにコンビニも無く食料の買い出しが出来ず、八十里峠を縦走するのは危険と判断し、戦国武将・直江兼続も通ったという六十里(国道252号線)に変更した。

 この国道252号線は、近辺に「銀山湖(奥只見ダム)」があり、渓流釣り師にとっては聖地でもある地区でもある。釣りを愛した作家の開高健も銀山湖に通った一人で、晩年は銀山湖に大イワナを放流し、その放流した子孫が多く棲息している。

 暫く進むと目の前には要塞の様な「田子倉ダム」が見えて来た。でも、中々ダムに近付けない。近付いたと思ったら今度は曲がりくねった上り坂道が続く。朝から歩き続けて漸く田子倉ダムの遊覧船乗り場に到着したのは出発から3時間後だった。

 田子倉ダムまで来たたのは好いが、思ってた以上の厳しさで心が折れる。早朝ということでレストランも売店も開いていない。朝から口に入れたのは黒飴1個だけ。1.5ℓの水も残りが心細くなって来た。自販機も無さそうだし、流石に腹が減った。

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 田子倉ダムを上る途中、振り返れば遠くに銀山湖(只見ダム)を見下ろす。

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 田子倉ダム遊覧船乗り場より。

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 六十里峠、小出まで未だ未だ遠い。

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 只見線は日本でも有数のローカル線です。復活して欲しいものだ。

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 もう随分と標高も高くなった。

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 田中角栄総理大臣揮毫による「会越の窓を開く」の記念碑。

 歩けども歩けども同じ様な山道の光景が続くだけ。兎に角、ひたすら歩き続けるしかない。9時間ぶっ続けで歩くも水も底を尽き、20キロ以上あるリックを背負っての縦走で流石に体力も限界に近い。ここまで約30キロは歩いただろうか。

 次の駅が在るのは未だ未だ先だ。自販機も在る気配すらない。記念碑の場所で新潟方面から来た女性ライダー2人に「この先に自動販売機とか家とか在りました?」と聞くも「え~、無いと思います」との返答に疲れがどっと押し寄せた(笑)

 トレッキングや登山経験もあるし、修験の山「大峰山」にも何度か登ったことはあるがここまで辛いのは初めてだ。唯、救いは1人なので気楽だということだけか。

 それにしても昔の人というのは凄いと思う。そんな装備もなく、玄米3合と漬物くらいの食事で長い距離を歩いたのだから大したものだ。河井継之助一行も長岡から八十里峠を丸二日で歩いたという記録が残ってるが驚くべき体力である。

 継之助は江戸への遊学の際や岡山や長崎への遊歴でも徒歩で旅をした。江戸藩邸から横浜など実に驚く距離を行き来している。継之助に限らず、坂本龍馬や吉田松陰などもそうだった。自由気儘に歩き回ることが禁止されていた幕藩体制下、況してや交通の不便だった時代に彼らは実に縦横無尽に日本全国を歩き回った。

 この「歩く人」がいなかったら明治維新は成し遂げられなかったと言っても過言ではないだろう。そんなことを考えながら歩き続けるも己のだらしなさを痛感する。

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 もう40キロ近く歩いただろうか。軽いスニーカーにすれば好かったとダナーのブーツの重さを恨みながら、落ちてる小石も歩くのに邪魔になりだした(笑)

 飲む水も無いし、「こりゃ最後はドクターヘリか救急車だな」と自嘲しながらふらふらして歩いているとそこに救世主が現れた。地獄に仏とは正にこのこと。

 軽トラに乗ったオヤジさんが、そんな自分を見兼ねて気の毒に思ったのか、通り過ぎて直ぐに急停車し「乗ってくかい?」と一声。この誘いを断る理由は無く、即「ハイ!ありがとうございます」。新潟の「小出」まで行く途中だという。

 車内で色々と話すと、何やら昨晩に立ち寄った「山六食堂」の店主とは従兄弟だという。縁は異なもの味なもの、袖摺り合うも多生の縁とはこういうことだ。

 でも、このオヤジさん、話しながら愚生の方をしょっちゅう向くのでカーブでは反対車線にはみ出すし、話に夢中で信号無視するし、ホント危なかったな(笑) 

 渓流釣りの話にも及んだ。オヤジさんの話に因ると「銀山湖」に来る釣り人は年々減っているらしく、てっきり原発事故の影響なのかと思ったら、その多くは高齢となり釣りを卒業したとか、死んでしまったのだろうということだった。

 ん~なるほど。そういや確かに開高健も亡くなってるし、愚生の周りを見ても、銀山湖を愛した「ザ・バー」の渡辺秀行マスターも幽冥境を異にしてしまった。

 最初の駅で降りるつもりが「小出駅」まで送って頂いた。僅かばかりの心付けを渡すと必死に拒む。「いや、ホンの気持ちです。冷たいビールや晩酌の足しにでもして下さい」というと、「んじゃ、かえってすみません」と微笑んだ。

 酒は相当イケる口と読んだが、是非とも邂逅し盃を傾けてみたいものだ。

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 画像の小出駅看板は俳優・渡辺謙の揮毫によるもの。吉永小百合に感化され思想は御粗末だが、中々の達筆ぶりに思わず見入った。流石に字に勢いがある。

 気の好いオヤジさんと別れて直ぐに自販機で水を購入した。「酔い覚めの水、値は千両と決まりけり」「酔い覚めの水は甘露の味」なんて言うが、枯れてた愚生にとってこの水の旨さはビールよりも格別で、生き返ったのは言う迄もない(笑)

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 小出駅前の食堂に入りビールで安着祝い。腹は減ってたが疲れもありビール1本と天ざる一杯で眠くなった。駅近くの広場を見付けてテントを設営し就寝した。

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 中秋の名月も秋の夜長も楽しむ余裕もなく、鈴虫の声の心地よさもあり爆睡。

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 小出駅前に貼り出されていた奥只見郷観光マップ。只見町は今年「ユネスコエコパーク」に登録された。正に日本の原風景で、誰もが何故か懐かしく思うだろう。出来ることなら晩年は、奥只見でイワナ釣りしながら余生を過ごしたいものだ。

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 翌朝は電車で長岡へ。河井継之助記念館と山本五十六の記念館を拝観する為だ。駅から「河井継之助記念館」まで徒歩で10分ほど。記念館は継之助の私邸が在った場所。因みに現在の長岡駅は長岡城が在った場所に造られている。

 10時の開館には未だ15分ほどある。外で待とうとしてると中から女性が出て来て「好かったら中へどうぞ!」と声を掛けられたので好意に甘えて中で休むことに。

「どちらから来られたんですか?」の問いに、「いや~只見の終焉の地から八十里(ホントは別な六十里)峠を歩いて来ました。3日かかりました(笑)」とシャレで大袈裟に答えたのだが、その驚き様と反応ぶりにチョッと戸惑った(笑)

 会館内でビデオを観る。河井継之助を知りたい人は司馬遼太郎の「峠」が分かり易いと思うので是非とも御一読為れたい。30分ほど見学し、次に立ち寄ったのは「山本五十六記念館」。その記念館は継之助記念館から徒歩1分の所に在った。

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 会館内には山本五十六の遺品や書などが展示されていた。中央にはパプアニューギニアで墜落した際に乗っていた戦闘機の翼が据えられていたが、実に往時を偲ばせる生々しいものだった。翼に向かって頭を垂れ暫し黙祷する。

 遺品の中でも驚いたのが、入口前に展示してあった15歳の時に友人に宛てたという手紙。五十六の達筆さも然ることながら文章力の高さは驚くばかり。

 正に神童と称えられた五十六の片鱗を窺えるもので、「栴檀は双葉より芳し」という格言通り、天才とは生まれながらにして天才なのだろうと痛感した次第。

 11時過ぎ、今回の旅の目的はここで凡そ終了。扨て、これから北上するか南下するか、それともこのまま帰還し、捲土重来を期して再度計画を練り直すか。まあ、ビールでも飲んで考えるかということで市内をぶらり散策してみる(笑)

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 10分ほど歩いたところで好さ気な蕎麦屋を発見。「越後長岡・八嶋屋本店」。新潟名物の「へぎそば」の名店である。暑さもあり、早速入店し、生ビールの小を注文。一気に飲み干して、次に地酒の〆張鶴の純米の冷酒で蕎麦前&反省会(笑)

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 〆で頂いたへぎそばは絶品で思わずお代わりしてしまった。雰囲気も店員さんの対応も完璧で、久しぶりに好い蕎麦屋で好い酒が飲めた。また来よう(笑)

 その後は新潟へ出ようと駅に向かうと、ある喫茶店が目に留まった。「珈琲を飲みながら、山本五十六を語りませんか?」という看板を目にし思わず入店。

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 入ってみれば普通の喫茶店。店自慢の「山本五十六珈琲」を注文。店主が珈琲と山本五十六の経歴などが書かれた自作のパンフレットを持って登場。山本五十六談義になるのかと思いきやパンフレットを置いてっただけだった(笑)

 パンフレットには「軍縮会議出席のため渡米中、山本五十六がコーヒーに多量の砂糖を入れて飲むのを見た同席者が『ずいぶん甘党ですね』と声をかけると、『できるだけアメリカの物資を減らしてやるんだ』と冗談半分に答えたと言う」逸話が。

 ということで、五十六を真似て砂糖を遠慮気味に2杯ほど入れて飲んでみた。ん~甘い。エスプレッソに砂糖は分かるが、やはりコーヒーはブラックに限る。勘定は600円也。まぁパンフレット代も入ってると思えばそう高くはないか(笑)

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 駅に向かい、一路新潟へ。北上し、山形県村山市の蕎麦屋の名店「あらきそば」に行こうと計画するも乗り継ぎが難しく、明日は定休日ということで断念する。

 ならば「弥彦神社にでも行こうか」と地図を見れば、燕三条から弥彦線で行くか新潟から越後線で向かうしかない。ということで新津へ。そして新津から会津若松へ。

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 会津若松へ戻り、長岡藩の山本帯刀らが眠る市内に在る「本光寺」に参ろうと思っったのだが、会津若松市内のホテルは何処も満室。3日続けての野営はチョッと辛い。風呂にも入りたいしということで諦めて郡山に帰還することにした。

 何故に「本光寺」なのか。河井継之助が只見で亡くなり、その後に残った長岡藩士は会津へ向かった。長岡藩上席家老で大隊長の山本帯刀もその中の一人。

 山本以下44名(碑に刻まれてる数字、46名とも)は濃霧の為に敵が見えず、味方の会津藩だと思われた軍勢は霧が明けてみれば西軍の然もど真ん中だった。

 会津同盟軍から孤立し、銃撃されるも勇猛果敢に応戦。32名が戦死し14名が生け捕りにされた。薩摩藩淵辺直右衛門を含む3人の軍監は山本らに降伏を迫るも、「降伏に来たのではなく戦いに来た」と降伏を拒否する。この覚悟と潔さ天晴れ。

 山本帯刀を始め長岡藩士の斬首が決まり、9月8日藩主、そして長岡の方向に別れを告げ、粛々と異郷の地に散って逝った。この時、山本帯刀、24歳。

 因みに、山本帯刀亡き後、山本家は廃絶となった。明治に入りその罪は赦面となるが跡継ぎの居ない山本家は廃家状態となっていたが、長岡士族の高野家より養子縁組をすることに。その養子こそが高野定吉の六男、後の山本五十六元帥である。

 因みに、五十六の妻・禮子は会津氏族の娘で、河井継之助と山本五十六という悲運の武将二人と、悲運の会津藩が此処でも繋がっている。実に感慨深い。

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 河井継之助や山本五十六が好んで使ったのが「常在戦場(じょうざいせんじょう)」という言葉。別に軍師や軍人だからではなく、長岡藩の藩風・藩訓であり、読んで字の如く、「常に戦場にあるの心を持って生き、事に処す」という意味だ。

 職場でさえも「戦場」である。これ即ち「一所懸命」とか、「一日一生」と同じ意味である。自分が今いるその場で、今頑張らずにいつ頑張るというのだということ。政治家や上に立つ者こそ、この真心を以て事に当らねばならないと思う。

 今回の放浪の旅は2泊3日の強行軍(移動距離約450㌔、内徒歩約50㌔)で、無計画さを猛省すること頻りですが、それはそれで活動家としても得るものが多々あり、満足出来る旅となりました。次回は今回の旅を教訓に計画を万全にし、八十里峠を踏破したいと思っています。次回は、皆さんも是非同道してみませんか。呵呵。

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。

cordial8317 at 09:57│Comments(0)

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