人生とは長く生きた年月ではなく如何に生きたかという中身が大事8月15日の靖國参拝は愛国者としての踏絵なのか

2023年08月13日

徒然なるまゝにその日暮らし。パソコンに向ひて心に移り行くよしなしごとをそこはかとなく書きつくれば(笑)

 小学校時代に亡き父から「この本は読んどけ」と言われたのが、田中角栄の「わたしの少年時代」と尾関宗園の「いま頑張らずにいつ頑張る」、そして福島が生んだ大物財界人で梟雄の織田大蔵語録(今泉正顕著)「大物になる本」の三冊だった。

 中でも「大物になる本」はワクワクして読んだっけ。座右の書と言われればこの三冊じゃなく「徒然草」だろうか。否、マンガの「嗚呼、花の応援団」か(笑)

 右翼の先輩や右翼の先生方は林房雄や福田恆存、北一輝や大川周明、或いはヒットラーなどの難解な本を進める人が多いが本当に理解しているとは思えない。

 本というのは読まないよりは読んだ方が好いが、読むだけではダメ。読んで感じ入ったところを書き留め、それを真似たりして心に確りと刻み込むのが好い。

 国士舘の教育指針には「読書」「体験」「反省」「思索」というものがある。「読書」したら感じ入った箇所を模倣して「体験」してみることが大事。

 真似はダメという人がいるが、人真似上手は個性を育てる第一歩でもある。大谷翔平選手やイチローなど一流と呼ばれる多くが真似ることでその技を習得した。何をやるにしても、上手くなる為の一番のコツはモノマネすることが近道でもある。

 真似も極めればそれなりになるが、大事なのはその先。体験や実践すれば必ず失敗する。失敗したことを「反省」し、何故に失敗したのかを「思索」して次に繋げることこそが学ぶ上で大切であると国士舘創設者・柴田徳次郎先生は教えている。

 経営の神様と言われた松下幸之助は、会社発展の秘訣を聞かれ「雨が降れば傘をさす。商売・経営に秘訣があるとすればそれはその平凡なことをごく当たり前にやることに尽きる」と答えたという。商いとは「厭きない」とはよく言ったものだ。

 当たり前のことをコツコツやり続けることが大事であり、つまり「真理は平凡の中に在る」ということだが、この平凡に気付かない。幸福もまた平凡の中に在る。

 右翼とは「反共」であると同時に「反資本主義」であらねばならない。だが、資本主義に抗すれば何も出来ないのも確か。活動資金というより日々の生活を生きるのに必死で、いつの間にか活動よりも日々の生活で一杯一杯になってしまう。

 愚生は「門前の小僧習わぬ経を読む」ではないが、ラーメン屋の倅として食堂でもやれなくもないが、金儲けには淡白で根が厭きっぽい性格だから無理。「果報は寝て待て」が信条の愚生に「あきんど(商人)」は到底やれそうもない(笑)

 世界は資本主義か社会主義、或いは共産主義の体制に分かれてはいるが、どれが国民にとって生活が豊かなのかといえば資本主義国だろう。我が国は資本主義を取り繕ってはいるが、現憲法下の共産主義的累進課税と相続税の実行を謀っている。

 我が国は日本的社会主義制度であるが、国民の多くがそこに気付かない。資本主義の「資本」というのは「カネ」のこと。ただのカネではない、カネを動かすことによって利益としてそれ以上のカネが増え、その儲かるカネを「資本」という。

 資本主義とは「カネ主義」という単純なこと。国民がカネに集り、個人主義の業突く張りになったのも全てがこの資本(カネ)主義による弊害と言えるだろう。

 インチキ経済評論家の影響か、国民の多くは資本という単純な意味を知らない。資本主義国に甘んじながらそれすらも理解していない国民は実に多いのは笑えない。

「資本を投入することでそれ以上の収入を生む」ということを理解してないから、「公共投資はダメ」だとか、「赤字国債は借金」と言った妄言が罷り通る。

 資本を、人間の欲と努力で段々と大きな資本として発展させるところに、事業としても、国家としても繁栄に繋がると信じているのが資本主義であるが、戦後、我が国が選択したその限りない資本主義という欲望は止まるところを知らない。

 資本主義とは欲望の社会。昨今の資本家や社長らに社稷を思う心は無く、「社稷」という意味すら知らない卑しい者ばかり。吉田兼好は「徒然草」でこう曰はす。

「名利に使われて、閑かなる暇もなく、一生を苦しむこそ、愚かなれ。財多ければ、身を守るにまどし。害を買い、累を招く媒なり。身の後には、金をして北斗をささふとも、人のためにぞわづらはさるべき。愚かなる人の目をよろこばしむる楽しみ、またあぢきなし。利に惑ふは、すぐれて愚かなる人なり」(三十八段)

 意味は「世俗的な名声とか地位とか財産とかに身も心も使われて、心静かにゆったりと生活を楽しむ余裕もなく、一生あくせくと暮らすなど実に愚かなことだ。財産が多いとそれだけ身を守らねばならず、面倒な煩いを招くもととなる。例え死んだ後でも残された遺族たちは財産分与で揉めるだけだ。そんな愚かな人々の為に自慢したところで、それもまたつまらないことだ。利欲に惑うことは最も愚かな人である」

 兼好の様に、職を辞し精神の自由を求めれば生活は困窮する。暮らしを楽にしようとすれば心が拘束される。 愚生は浪々の身ではあるが、せめて精神だけは兼好の様に自由でありたいと思い、兼好の生き様を実践しようと思うが困窮するばかり。

 右翼浪人として「清貧に甘んじる」とカッコ付けてはいるが、織田大蔵に言わせれば「貧乏とは弱者の戯言に過ぎない」と断じているが蓋し正論でもある(笑)

 我が国の資本主義は、正しく米国附庸型日本的社会主義国であり、心ある国民ならこうした歪な資本主義の矛盾に気付いているし、資本主義社会の限界を感じている。本来、我が国が目指すべきは天皇中心の平等社会、国家社会主義が理想である。

 経済界を見渡せば営利至上主義の小者ばかり。その小者の起業家に平身低頭し、小者の言い分を実行しているのが今の政治家であり政治家は更に小者になった。

 今の時代は「成りあがり」や「成り金」なんていうと軽蔑されるが、資本主義社会では成り上がった経済人は一目も二目も置かれる存在であらねばならないのだが、見渡せばそういう昔の財界の大物と呼ばれた「成りあがり者」の経済人もいない。

「成り金」とは将棋と同じく立派な「おくり名」でもあり、三菱の岩崎弥太郎を始め、松下幸之助やホンダ、ブリジストン、ソニーにしろ創業者と言われる人物は「成り金」だったではないか。商売人を目指すなら成り金を目指さねばウソだ(笑)

 まぁ、右翼浪人の愚生如きに商売のイロハを聞いてる様じゃ高が知れてるが、小者は大人物の大きな志など分からない。また、大人物にならんと欲する者は小者の気持ちを知らねばならず、先ずはどんなことでも経験することが後々の財産になる。

 事業家に必要なことは柔軟性だろう。いつでも変化に即応する柔軟性とは、やはり「経験」であり「反省」である。そしてそこから生まれたものが「思索」となり活かされるのだが、今の二代目、三代目の経営者にはそれらが決定的に乏しい。

「小人物には大人物の考えや志が分からない」という喩えに、「燕雀(えんじゃく)安(いず)くんぞ鴻鵠(こうこく)の志を知らんや」という諺がある。つ~か、右翼人で大人物といわれる人はいるのだろうか。まぁそんなとこで、今日もまた徒然なるまゝに硯ではなくパソコンに向かってそこはかと綴ってみました。呵呵。

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cordial8317 at 05:37│Comments(0)

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