2013年12月28日
坂本龍馬を暗殺したのは誰なのか・・・
先日、小名木善行さんのブログ「ねずさんのひとりごと」で「坂本龍馬暗殺説」というのがアップされてて興味深く読んだ。愚生も拙ブログで論じたことがある。
龍馬暗殺の謎について、「北辰一刀流免許皆伝の龍馬を一刀両断するとは」とか、「龍馬はピストルを持っていたのに一発も発砲されていないのは何故か」だとか、「中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないか」など、謎は多い。
こうした疑問は、竜馬のカリスマ性と共に後々誇張され歪曲され、そして想像されていったのではなかろうか。龍馬は、幕末には有名ではなかったという。
明治維新後、数十年が経った頃に四国の新聞に「坂本龍馬特集」が連載され、それが人気に火を点け、全国に拡がり現在に至っているというのが真相である。
坂本龍馬暗殺の実行犯は今でも歴史家の意見も様々で、「京都見廻組」と「新撰組」に分かれている。「京都見廻組説」では、明治時代に入り、元・隊士だった今井信郎、渡辺篤が、佐々木只三郎らと実行したとの証言を理由に挙げる。
「新撰組説」では、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたとか、伊予出身の新撰組隊士の原田左之助刀の鞘や隊士の下駄が近江屋に残されていたとの説を挙げる。
この「こなくそ」説は、それこそ土佐藩士の谷干城のひとりごとだのではあるまいか。こうした謎が、却って龍馬の神秘性を高めているのは確かだろう。
龍馬は、近江屋には、万が一に備えて脱出することが出来る隠れ家を土蔵に作っていたという。だが、風邪を引いていた龍馬は土蔵ではなく、来訪した中岡慎太郎と近江屋のニ階で、好物の「鶏の水炊き」を食らいながら歓談していたという。
部屋には中岡の他に、龍馬の護衛をしていた元・力士の山田藤吉がいた。その日に、近江屋に南大和の「十津川郷土」と名乗る男らが訪ねて来る。山田が対応したが、その客人を山田は疑いもせずに通したというが、顔見知りだったのだろう。
部屋へ向かう途中に山田は後ろから斬られ、続いて龍馬と中岡が襲撃された。龍馬は即死に近く、仄聞されている様な「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」という台詞を吐く間もなかっただろう。中岡は襲撃からニ日後に亡くなった。
龍馬は北辰一刀流の免許皆伝というのが歴史的に語られているが、事実は北辰一刀流の「長刀」の使い手、つまりは薙刀である。西洋流砲術も学びはしたが、実際には剣の腕前はそれほどではなかったというのが真実なのではなかろうか。
居合や剣道を経験した者は分かるだろうが、龍馬がピストルを持ち、ブーツで袴姿のあの有名な写真は見るからに如何にも弱そうで、とても剣の達人とは思えない。
寺田屋事件でも、龍馬は短銃で応戦したというがが、弾丸が切れたにも拘らず、持っていた刀を抜いてはいない。それどころか短銃を振り回して、両手に数か所の深手を負った。とても北辰一刀流免許皆伝の応対ではないと思う。
この時の傷を癒す為にお龍さんと共に薩摩の温泉に行くのだが、歴史的にはこれが新婚旅行の最初とされている。だが、これも根拠の無いもので、薩摩藩の家老・小松帯刀がそれより十年も早く霧島へ新婚旅行へ行ってるそうだ。
歴史が物語として語られる時、必ずしもその人物の真実を伝えているとは限らない。書き手や読み方ひとつで変わっていくものなのだ。龍馬の憧れも好いが、生き方を学ぶなら、やはり龍馬が実践した横議横行こそ学ぶべきだと思う。
時代の寵児として活躍した人物らの共通の特徴は「言葉」が違うことだ。大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無い。龍馬は、正に「言葉の達人」だった。
彼が幕閣とも勤王の志士とも通じ、後には薩長連合の仕掛け人として明治維新を豪腕で引き寄せ立役者足り得たのは、説得の技術が長けていたということであり、つまりはその言葉の豊かさに拠るものだろう。更にもう一つは、彼が「歩く人」だったことだ。交通の不便だった時代に、龍馬は実に驚く距離を行き来している。
家を飛び出し、多くの人と顔を突き合わせ「横議横行」することは実に大切なことで、その邂逅こそが時代をも変える可能性を秘めていると確信している。
今秋、久々に放浪の旅に出て「横議横行」した。終わったばかりなのにまた行きたいと思う。そんなことより年末年始の手元の不如意をどうにかせねば。呵呵。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
龍馬暗殺の謎について、「北辰一刀流免許皆伝の龍馬を一刀両断するとは」とか、「龍馬はピストルを持っていたのに一発も発砲されていないのは何故か」だとか、「中岡の暗殺に、龍馬が巻き込まれたのではないか」など、謎は多い。
こうした疑問は、竜馬のカリスマ性と共に後々誇張され歪曲され、そして想像されていったのではなかろうか。龍馬は、幕末には有名ではなかったという。
明治維新後、数十年が経った頃に四国の新聞に「坂本龍馬特集」が連載され、それが人気に火を点け、全国に拡がり現在に至っているというのが真相である。
坂本龍馬暗殺の実行犯は今でも歴史家の意見も様々で、「京都見廻組」と「新撰組」に分かれている。「京都見廻組説」では、明治時代に入り、元・隊士だった今井信郎、渡辺篤が、佐々木只三郎らと実行したとの証言を理由に挙げる。
「新撰組説」では、刺客が「こなくそ」と伊予弁を話していたとか、伊予出身の新撰組隊士の原田左之助刀の鞘や隊士の下駄が近江屋に残されていたとの説を挙げる。
この「こなくそ」説は、それこそ土佐藩士の谷干城のひとりごとだのではあるまいか。こうした謎が、却って龍馬の神秘性を高めているのは確かだろう。
龍馬は、近江屋には、万が一に備えて脱出することが出来る隠れ家を土蔵に作っていたという。だが、風邪を引いていた龍馬は土蔵ではなく、来訪した中岡慎太郎と近江屋のニ階で、好物の「鶏の水炊き」を食らいながら歓談していたという。
部屋には中岡の他に、龍馬の護衛をしていた元・力士の山田藤吉がいた。その日に、近江屋に南大和の「十津川郷土」と名乗る男らが訪ねて来る。山田が対応したが、その客人を山田は疑いもせずに通したというが、顔見知りだったのだろう。
部屋へ向かう途中に山田は後ろから斬られ、続いて龍馬と中岡が襲撃された。龍馬は即死に近く、仄聞されている様な「わしゃ脳をやられちゅうきダメじゃ」という台詞を吐く間もなかっただろう。中岡は襲撃からニ日後に亡くなった。
龍馬は北辰一刀流の免許皆伝というのが歴史的に語られているが、事実は北辰一刀流の「長刀」の使い手、つまりは薙刀である。西洋流砲術も学びはしたが、実際には剣の腕前はそれほどではなかったというのが真実なのではなかろうか。
居合や剣道を経験した者は分かるだろうが、龍馬がピストルを持ち、ブーツで袴姿のあの有名な写真は見るからに如何にも弱そうで、とても剣の達人とは思えない。
寺田屋事件でも、龍馬は短銃で応戦したというがが、弾丸が切れたにも拘らず、持っていた刀を抜いてはいない。それどころか短銃を振り回して、両手に数か所の深手を負った。とても北辰一刀流免許皆伝の応対ではないと思う。
この時の傷を癒す為にお龍さんと共に薩摩の温泉に行くのだが、歴史的にはこれが新婚旅行の最初とされている。だが、これも根拠の無いもので、薩摩藩の家老・小松帯刀がそれより十年も早く霧島へ新婚旅行へ行ってるそうだ。
歴史が物語として語られる時、必ずしもその人物の真実を伝えているとは限らない。書き手や読み方ひとつで変わっていくものなのだ。龍馬の憧れも好いが、生き方を学ぶなら、やはり龍馬が実践した横議横行こそ学ぶべきだと思う。
時代の寵児として活躍した人物らの共通の特徴は「言葉」が違うことだ。大衆の心を引き付けるのは「言葉」を以て他に無い。龍馬は、正に「言葉の達人」だった。
彼が幕閣とも勤王の志士とも通じ、後には薩長連合の仕掛け人として明治維新を豪腕で引き寄せ立役者足り得たのは、説得の技術が長けていたということであり、つまりはその言葉の豊かさに拠るものだろう。更にもう一つは、彼が「歩く人」だったことだ。交通の不便だった時代に、龍馬は実に驚く距離を行き来している。
家を飛び出し、多くの人と顔を突き合わせ「横議横行」することは実に大切なことで、その邂逅こそが時代をも変える可能性を秘めていると確信している。
今秋、久々に放浪の旅に出て「横議横行」した。終わったばかりなのにまた行きたいと思う。そんなことより年末年始の手元の不如意をどうにかせねば。呵呵。
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cordial8317 at 07:10│Comments(0)
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