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2013年12月26日

「西郷隆盛」の本当の名前は「西郷隆永」だったって知ってます?

 西郷隆盛というと上野の銅像のイメージが強いが、銅像落成の日にそれを目にした糸子夫人が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ」と落胆したという。

 夫人が言う様にもっと美形だったらしい。遠島処分の際にもモテモテだったらしいし。西郷隆盛というと「大西郷」という豪快なイメージだが、意外に繊細な面も、或いは、慶喜公を執拗に糾弾していた様に執拗な性格も見え隠れする。

 西郷隆盛の正式な名前は「隆盛」ではなく、「西郷隆永」。驚くことに「隆盛」というのは実は父親の諱(いみな・名前)だったということを知る人は少ない。

 西郷は、幼少の頃には「小吉」という名で、元服すると「吉之介」を名乗り、その後は「善兵衛」「吉兵衛」「三助(菊池源吾)」、大島三右衛門、大島吉之助、西郷吉之助と名乗っている。島流しされた際には菊池や大島と名乗っている。

 何故に「隆永」ではなく「隆盛」になってしまったのか。明治2年、戊辰戦争の奥羽戦線から帰京させる際に、宮内庁から御召状が出されることになった。

 召喚状には通称ではなく諱で記さねばならず、知人の吉井友実に尋ねたところ、「確か、隆盛じゃった」と答えた。それが「隆盛」となったというのである。

 帰京して、その吉井に会った西郷は、「あれは父の名でごわんか。わしの名は隆永じゃと、おはんも知っちょるじゃろう」というと、吉井も頭を掻きながら、「ほんにそうじゃった」と詫び、二人は顔を合わせて大笑いしたという。

 その後、西郷は「隆盛」という名を否定も訂正もしなかったのは、吉井への気遣いと西郷の大らかさを示すものだろう。西郷には写真が一枚も残されていない。上野の西郷像は、実弟の西郷従道と従弟の大山巌を合わせて創った想像の人物だ。

 糸子夫人は、西郷を「俳優のような好い男だった」とのろけていたというが、分からなくもない。実際の西郷は、眉太く、黒目がちの美しい目をした色白の美男子だったという。完成した銅像を見た糸子夫人の落胆は想像するに余りある。

 慶喜公の恭順と江戸城の無血開城に満足せず、代わりに会津を攻め落とすことで徳川時代終焉の象徴にした訳だが、大西郷たるものどうにか出来なかったのか。その後「征韓論」を唱える西郷は、大久保利通らと対立し薩摩へ帰郷する。

「佐賀の乱」「神風連の乱」「秋月の乱」「萩の乱」など、士族の反乱が続く中で、明治10年(1877年)には西郷が主宰する私学校生徒が暴動を起こし、それが原因で「西南戦争」が勃発。この指揮を執るも、敗れて城山にて自刃した

 明治維新では栄華を誇った西郷隆盛だったが、歴史というのは正義が常に正義ではなく、会津藩と同じく正義が敗れることもある。歴史とは実に異なものである。

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cordial8317 at 07:20│Comments(1)

この記事へのコメント

1. Posted by ごんぞう   2013年12月26日 12:29
3 日々配信を楽しく読まさせて頂いております。
隠居身のごんぞうと申します。

最近偶々手にした「広辞苑の罠」水野靖夫氏の著の初項の方に正に征韓論と言う言葉の記載ありました。

本来なら遣韓論とも言うべきで、広辞苑を信頼する学生には誤解を与える解釈記述となっている事に考えさせられる。まさかここまで浸食されてしまっているのかと。記載ではまさに朝鮮を征伐の如きの解釈である。

写真がない、確かに銅像とフランスのニュース紙に掲載された西郷隆盛とその仲間たちの肖像画(明治10年)は、後年か描かれた西郷像とは雰囲気が全く違いますね。あ、西郷隆永ですね。
知りませんでした。

言葉ひとつ解釈するにも、その時代背景(ロシア、大陸、半島情勢、他)
のある程度理解していないと、ただ現代解釈で広辞苑まで犯されている事に新たな驚きがあり、ついメールさせて頂きました。

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