尊敬はあくまでも醇乎たるべきものでなければならない(河井継之助)佐藤栄佐久元知事が退職金7726万円の返還命令を拒否(苦笑)

2013年12月16日

河井継之助と岩村精一郎との慈眼寺での会談は日本の歴史に禍根を残した

 昨夜はもの凄い風で我が襤褸マンションは彼方此方から隙間風が入り、ぴゅーぴゅーと五月蠅かったのもあって少々寝不足気味。床に就いて間もなく友人から「20時からBS日テレで特別時代劇 河井継之助 駆け抜けた蒼龍・北国にいたもう一人の坂本竜馬!が放映されます」との一報を頂いた。生憎うちはBS放送が観れない(笑)

 坂本龍馬というのは脱藩し、幕末という時流に乗り、維新の魁となったのは分かるが、河井はそうした時代の流れの中で小藩を必死に守ろうとした侍であり、龍馬とは真逆の生き方を全うした人物で、龍馬よりも格からしても上だろう。

 確かに龍馬は「薩長同盟」に奔走したり全国を駆け回ったが、武器商人故のこと。河井の遊学は藩を憂うる至情からのものであり、その目的は全くの別物だ。

 龍馬というのは、幕末の時代にはそれほど有名な人物ではなかった。維新後に、「こういう人物が土佐にいたぞ」と地元高知の新聞で取り上げられた。それを機に、日本人ウケするそのキャラクターと共に全国的に有名になっただけのこと。

 そんな坂本龍馬に憧れて、新政府軍(西軍)に参加した人物に岩村精一郎というさもしい男がいる。土佐藩士で後に華族、男爵の称号を与えられたこの岩村こそ、長岡藩や会津藩の悲劇を生んだ張本人であると言っても過言ではないだろう。

 新潟県小地谷の慈眼寺に於いて西軍との会談に赴いた河井継之助は、長岡藩の総督として中立を保ち和平交渉を進めようと、山縣有朋(狂介)か黒田清隆との会談を希望していた。だが、出て来たのは弱冠23歳の岩村。岩村はこれを一蹴する。

 この時、河井42歳。後に岩村は自伝で「途中で従う様になった信州各藩の家老は平凡な人材ばかりで、河井についても経歴や人物を知らなかった為に、時間稼ぎをしているだけだと思った」と述懐しているが、自らの無能を曝け出した様なもの。

 この岩村の無知と熟慮を欠いた判断が、長岡藩を奥羽列藩同盟側へ追い込むこととなったのだが、こうした刮目して相対すことも出来ない若造から罵られた継之助の心境は想像するに余りある。岩村・河井会談が決裂し中立を模索していた長岡藩は東軍勢力として戦うことを決意。会津藩と共に徳川に忠義を捧げ武士の本懐を成す。

「北越戦争」に於いて新政府軍は、長岡藩の抵抗によって大損害を被り、一旦陥落させた城を再び奪われるという軍事史的に稀な大失態を起こすことになった。

 本来であれば岩井は切腹ものだが、こうした失態の責任を問われたり罰せられてはいない。これをしても新政府軍というのは指揮系統が体を成さず、その実は卑しい権力欲ばかりで、武士の精神はこの時既に崩壊してしまっていたと言えよう。

 歴史に「もし」はないが、もし、河井と山縣や黒田との会談が実現していれば、「北越戦争」を避けられただろうし、その後の「会津戦争」も避けられただろう。或いは、長州閥で固められたその後の日本の姿も違っていたかも知れない。

 会津藩への講和交渉提案を引き受けるとまで申し出た河井に対し「単なる時間稼ぎである」と一蹴し交渉の機会を与えなかった岩村は、一軍の将としては狭量と言わざるを得ない。 括目して相対すことのなかった岩村に武士道精神は無い。

 要は、分不相応、未熟だったということだ。新政府軍も土佐藩というだけで岩村の様な無能な人材を登用せざるを得なかったということなのかも知れない。

 土佐の坂本龍馬や中岡慎太郎が存命ならまた違ったものになっていただろう。歴史というものは実に移ろい易い。 先の大戦でも多くの有能な人材が失われたが明治維新でも然り。残った岩村を始め、長州閥を中心とした木っ端ばかり。

 ドナルド・キーンも岩村の人物像をして、「無能で横柄な岩村の抜擢は、最悪の選択だったと言える」と厳しく評しているが正鵠を射たものだと思う。岩村の様な小人の軽挙妄動で、我が国は人材を失うという大きな損害を被ることになった、

※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。

《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。

cordial8317 at 07:00│Comments(0)

コメントする

このブログにコメントするにはログインが必要です。

尊敬はあくまでも醇乎たるべきものでなければならない(河井継之助)佐藤栄佐久元知事が退職金7726万円の返還命令を拒否(苦笑)