2022年12月14日
浅野公は斬りつけずに突けば好かったものを(二本松藩主・丹羽光重)
赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日から翌朝にかけてとされているが、旧暦では元禄16年1月30日。討ち入りの日は満月とされ、雪もあり明るい夜だったとさているが、旧暦だと新月なので暗かったのではと推測する。
我が故郷の二本松には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。この教えは、播磨赤穂藩の第3代藩主の浅野内匠頭と二本松藩初代藩主・丹羽光重の繋がりを示す逸話があり、いつしか伝統となったものだ。
丹羽公は、吉良上野介を討ち損じたとの報に接し、「何故、浅野公は斬りつけたのか、斬りつけずに突けばよかったものを!」と、酷く悔しがったという。
以来、二本松では「斬らずに突け」が伝統となった。二本松少年隊の成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だったという。
大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、単独で二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。「必ず敵将を斃してやる」と物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来るのが見えた。
西軍の白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、大刀を真っ直ぐに構えるや一気に先頭の白井に向って突進した。
然し、歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。「子どもじゃ、手を出すでない」と白井。白井は突っ込んで来るのが幼い子供だと瞬時に見抜き兵を制した。だが、それが徒となった。
才次郎の剣は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。たまらず白井が落馬する。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが近寄ることも出来ず、已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来た。
このとき才次郎、14歳。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将・白井小四郎の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えることはない。
会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに比べて、二本松少年隊の最年少隊士は僅か12歳。会津武士道の昇華を白虎隊に例えるが、二本松少年隊も同じく二本松武士道の昇華そのものであり、郷土二本松に生きる方々の誇りでもある。
薩摩藩士で陸軍元帥・野津道貫は回顧談(近世国民史)で、「兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃は頗る正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と述懐している。
スペンサー(元締め)銃を手に奮闘したのは二本松少年隊の小澤幾弥。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
阿武隈川を超え、霞ヶ城に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒すも朝河八太夫と討ち死にする。因みに、砲術師範の八太夫は世界的歴史学者である朝河貫一博士の祖父である。今を生きる我々は先人の覇気に学ばねばならない。合掌。
※ブログコメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
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我が故郷の二本松には、代々「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という刀法が伝わっている。この教えは、播磨赤穂藩の第3代藩主の浅野内匠頭と二本松藩初代藩主・丹羽光重の繋がりを示す逸話があり、いつしか伝統となったものだ。
丹羽公は、吉良上野介を討ち損じたとの報に接し、「何故、浅野公は斬りつけたのか、斬りつけずに突けばよかったものを!」と、酷く悔しがったという。
以来、二本松では「斬らずに突け」が伝統となった。二本松少年隊の成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも、この「斬らずに突け」だったという。
大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、単独で二本松城下の郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。「必ず敵将を斃してやる」と物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに立派な武士が一隊を率いてやって来るのが見えた。
西軍の白井小四郎が率いる長州藩の部隊だった。才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、大刀を真っ直ぐに構えるや一気に先頭の白井に向って突進した。
然し、歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。「子どもじゃ、手を出すでない」と白井。白井は突っ込んで来るのが幼い子供だと瞬時に見抜き兵を制した。だが、それが徒となった。
才次郎の剣は、狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。たまらず白井が落馬する。驚愕した長州兵らは慌てて才次郎を捕えようとするが近寄ることも出来ず、已む無く鉄砲を使い、漸くこの小さな勇士を倒すことが出来た。
このとき才次郎、14歳。少年への一瞬の憐憫が自らの死を招いたこの長州の将・白井小四郎の墓前には、今でも多くの参詣者からの香華が絶えることはない。
会津白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったことに比べて、二本松少年隊の最年少隊士は僅か12歳。会津武士道の昇華を白虎隊に例えるが、二本松少年隊も同じく二本松武士道の昇華そのものであり、郷土二本松に生きる方々の誇りでもある。
薩摩藩士で陸軍元帥・野津道貫は回顧談(近世国民史)で、「兵数不詳の敵兵は、砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが、敵は地物を利用して、おまけに射撃は頗る正確で、一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し、辛うじて撃退することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と述懐している。
スペンサー(元締め)銃を手に奮闘したのは二本松少年隊の小澤幾弥。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
阿武隈川を超え、霞ヶ城に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒すも朝河八太夫と討ち死にする。因みに、砲術師範の八太夫は世界的歴史学者である朝河貫一博士の祖父である。今を生きる我々は先人の覇気に学ばねばならない。合掌。
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cordial8317 at 06:56│Comments(1)
この記事へのコメント
1. Posted by 霊山愛郷日記 2013年12月14日 23:38
二本松は良い意味で封建制が完成された藩だったと文献等で読んだ記憶があります
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