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2021年12月14日

武士とは即刻「やられたらやり返す」というのが本道である

 赤穂浪士が吉良邸に討ち入りしたのは元禄15年12月14日。赤穂浪士の精神的支柱となったのが、陸奥国会津若松城下生まれの山鹿素行(やまがそこう)である。

 山鹿素行というと「山鹿流軍学の祖」として知られているが、実は、江戸時代に於ける武士道の理論を確立した人であり、山鹿の門人達が素行の談話を筆記した「山鹿語類」や「中朝事実(ちゅうちょうじじつ)」は日本人必読の著である。

「中朝事実」は、尊皇愛国の書として有名で、山鹿は、世の学者の外国(主として漢土)崇拝を批判し、皇統の一貫を根拠に、「日本こそ万国に卓越した『中華・中国』と呼ぶに相応しい国である」との日本主義を主張した人物でもある。

 王朝の度々変わった漢土に対し、我が国は天子(天皇)の地位を侵すような不義不道の者がいなかった為に皇統が一貫していると、日本の卓越性を強調している。

 江戸時代の267年の歴史の中で、理不尽な御家断絶や御家騒動は他にもあったが、唯一、赤穂藩の四十七士だけが「義士」と呼ばれ「武士道の華」と評価された。

 こうした事実は、山鹿素行の「正義の遂行」の本義に基づく教えが在ったからだと言っても好いだろう。 だが、一方で、忠臣蔵の討ち入りに「大義などではなく、単なる『打算』である」と断じる歴史家や批評家もいるのも確か。

 例えば「大石内蔵助は忠義心に由って討ち入りをやれなければ大石家は山科で帰農し、そのまま埋もれただろうが、吉良上野介を討ち取った結果、大石の子孫は本家の浅野家に千五百石の高録で召し抱えられた」との理由はその一つである。

「忠義ばかりでなく、子孫の将来まで考えて討ち入った」と断じるが、こういう批評というのは武士の美学というものを理解していない軽々しい戯言でしかない。

「葉隠」でも「赤穂浪士の仇討ちも、泉岳寺で腹を切らなかったのが落度と言うべきだ。それに主君が死んで、敵を討つまでの間が長過ぎる。もしもその間に、吉良殿が病死でもなされた時にはどうにもならないではないか」との行がある。

「仇討ちというのは緻密な計画でやるものではなく、武士とは即刻、やられたらやり返すというのが本道で、事の成否は問題ではなく行為自体に意味が在る」という。

 その上で赤穂の武士を「上方の人間は小利口だから世間から褒められる様にするのは上手である」と嘲笑しているが、確かに葉隠の指摘は的を射てると思う。

 まぁ、赤穂浪士の討ち入りを打算的と見るか否かは夫々だろうが、「仮名手本忠臣蔵」が日本人の美学を現し、多くの国民から愛されているのは確かだ。

 明治以降、仇討ちや報復を否定された結果、加害者は仕返しどころか泣き寝入りしたり、逆に被害者側が自殺してしまったり。学校でのいじめがその最たるもの。

 自殺するくらいなら加害者に報復し、刺し違えて遺恨を晴らすべきだと思うが、そんな被害者の遺恨を晴らしてくれるものが刑法であり「死刑制度」なのである。

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cordial8317 at 07:18│Comments(0)

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