2023年12月27日
さてさて、目明きとは不自由なものだなぁ(塙保己一)
盲聾唖という視覚・聴覚・言語という三重苦を克服した偉人というとヘレン・ケラーが有名だが、塙保己一(はなわほきいち)を知っている人は少ないだろう。
ヘレンは幼少時代、母親から塙保己一の話を聞かされていた。訪日した際、渋谷の温故学会の講堂で「私は塙先生のことを知った御蔭で障害を乗り越えることが出来ました。人生の目標であり、心から尊敬する人です」と語ったことは有名である。
延享3(1746)年5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市児玉町)出身。江戸時代の国学者。幼名は寅之助。3歳の時に眼病に罹り、7歳で失明。失明後に辰之助と改め、多聞房(たもんぼう)とも名乗ったこともあった。
15歳で雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)を名乗り、その後、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名している。文久2(1862)年、長州の伊藤博文と山尾庸三に暗殺されたとされている国学者・塙忠宝は保己一の息子でもある。
盲目ということで、保己一も他の盲目者と同じく針や按摩を身に付け様とするもさっぱり上達しなかった。身体の弱かった保己一を心配した雨富検校は、「旅をすれば丈夫になるだろう」と、21歳の春、父と共に関西への旅を勧めた。
北野天満宮を詣でた際に、保己一は「菅原道真」を守護神と決めたという。約2ヵ月の旅行を終え、保己一の身体は丈夫になり、学問への集中力が高まった。それから3年後、最晩年の国学者・賀茂真淵に入門し「六国史」などを学ぶ。
賀茂真淵に入門した期間は僅か半年ではあったが、真淵から得た学問や同じ志しを持つ仲間は保己一にとって生涯貴重な財産となった。才能を認めた水戸藩や幕府が支援し、国学研究の「和学講談所」を立ち上げ、多くの弟子を育てた。
天明5(1785)年、水戸藩の彰考館に招かれ「参考源平盛衰記」を校訂。続いて水戸光圀の「大日本史」の校正に参画し、幕府からその学問的力量を認められた。
保己一が編纂した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」は、実に41年もの歳月を費やし、木版1万7244枚で作り上げたもので、実に666冊にも及ぶ。
群書類従が完成したのは文政2年、保己一74歳。群書類従は我が国の貴重な古文書などを「全集」として形にしたもので、国の重要無形文化財に指定されている。
群書類従に続いて「続群書類従」などを編纂中に体調を崩す。文献の行く末を案じ乍らも、惜しむらく、同4年9月12日に幽明境を異にする。享年76歳。
保己一と弟子の逸話がある。源氏物語の講義をしていた夜、風で灯りが消えた。弟子達は、「先生、ちょっとお待ち下さい」と申し出ると、事情を知った保己一は、「さてさて、目明きとは不自由なものだなぁ」と朗笑したという。
ヘレンが何故、「塙保己一」という名前を知っていたかというと、サリバン先生を紹介したベル博士が、ヘレンの両親に語って聞かせてたからで、このベル博士に保己一のことを教えたのが伊沢修二という留学生。後に、文部省高官・教育者となった著名な人物で、「雲に聳 ゆる 高千穂の~♪」で始まる「紀元節」の作曲家でもある。
「されさて、目明きとは不自由なものだなぁ」とは実に意味深な言葉だ。「盲(めくら)千人、目明き千人」という言葉があるが、世の中には物の分かる人もいれば分からない人もいる。人を外見で判断したり、或いは安っぽい世論のムードに流されてはいないだろうか・・・。皆さんには物事がきちんと見えてますか(笑)
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員300000円~。
ヘレンは幼少時代、母親から塙保己一の話を聞かされていた。訪日した際、渋谷の温故学会の講堂で「私は塙先生のことを知った御蔭で障害を乗り越えることが出来ました。人生の目標であり、心から尊敬する人です」と語ったことは有名である。
延享3(1746)年5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現・埼玉県本庄市児玉町)出身。江戸時代の国学者。幼名は寅之助。3歳の時に眼病に罹り、7歳で失明。失明後に辰之助と改め、多聞房(たもんぼう)とも名乗ったこともあった。
15歳で雨富検校に入門してからは、千弥(せんや)を名乗り、その後、保木野一(ほきのいち)、保己一と改名している。文久2(1862)年、長州の伊藤博文と山尾庸三に暗殺されたとされている国学者・塙忠宝は保己一の息子でもある。
盲目ということで、保己一も他の盲目者と同じく針や按摩を身に付け様とするもさっぱり上達しなかった。身体の弱かった保己一を心配した雨富検校は、「旅をすれば丈夫になるだろう」と、21歳の春、父と共に関西への旅を勧めた。
北野天満宮を詣でた際に、保己一は「菅原道真」を守護神と決めたという。約2ヵ月の旅行を終え、保己一の身体は丈夫になり、学問への集中力が高まった。それから3年後、最晩年の国学者・賀茂真淵に入門し「六国史」などを学ぶ。
賀茂真淵に入門した期間は僅か半年ではあったが、真淵から得た学問や同じ志しを持つ仲間は保己一にとって生涯貴重な財産となった。才能を認めた水戸藩や幕府が支援し、国学研究の「和学講談所」を立ち上げ、多くの弟子を育てた。
天明5(1785)年、水戸藩の彰考館に招かれ「参考源平盛衰記」を校訂。続いて水戸光圀の「大日本史」の校正に参画し、幕府からその学問的力量を認められた。
保己一が編纂した「群書類従(ぐんしょるいじゅう)」は、実に41年もの歳月を費やし、木版1万7244枚で作り上げたもので、実に666冊にも及ぶ。
群書類従が完成したのは文政2年、保己一74歳。群書類従は我が国の貴重な古文書などを「全集」として形にしたもので、国の重要無形文化財に指定されている。
群書類従に続いて「続群書類従」などを編纂中に体調を崩す。文献の行く末を案じ乍らも、惜しむらく、同4年9月12日に幽明境を異にする。享年76歳。
保己一と弟子の逸話がある。源氏物語の講義をしていた夜、風で灯りが消えた。弟子達は、「先生、ちょっとお待ち下さい」と申し出ると、事情を知った保己一は、「さてさて、目明きとは不自由なものだなぁ」と朗笑したという。
ヘレンが何故、「塙保己一」という名前を知っていたかというと、サリバン先生を紹介したベル博士が、ヘレンの両親に語って聞かせてたからで、このベル博士に保己一のことを教えたのが伊沢修二という留学生。後に、文部省高官・教育者となった著名な人物で、「雲に聳 ゆる 高千穂の~♪」で始まる「紀元節」の作曲家でもある。
「されさて、目明きとは不自由なものだなぁ」とは実に意味深な言葉だ。「盲(めくら)千人、目明き千人」という言葉があるが、世の中には物の分かる人もいれば分からない人もいる。人を外見で判断したり、或いは安っぽい世論のムードに流されてはいないだろうか・・・。皆さんには物事がきちんと見えてますか(笑)
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cordial8317 at 07:30│Comments(0)
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