2023年01月11日
伝統的武道や芸事の世界は守破離」を重視する
十五ヨリ三十マデ万事ヲ師ニマカスル也。三十ヨリ四十マデハ我ガ分別ヲ出ス。四十ヨリ五十マデ十年間ハ師ト西ヲ東ト違ッテスル也。其ノ内、我流ヲ出シテ上手ノ名ヲトル也。又、五十ヨリ六十マデ十年ノ間ハ師ノ如クスル也。名人ノ所作ヲ万(よろず)手本ニスル也。七十ニシテ宗易ノ今ノ茶湯ノ風体、名人ノ他ハ無用也。
凡その意味は、「15から30までは師の教えを忠実に守り、30歳からは自分なりに思索し、40歳からは師の教えとは逆にやってみる必要があるということ。50歳からは師の如く振る舞うことで己も名人の域になれるということだ」という訓え。
この訓えは茶人の山内宗二の言葉だが、この「茶湯年来稽古」の基となっているのが、宗二の師であった千利休の「守、破・離」の心である。伝統的武道や芸事の世界の子弟関係の在り方というのは、この「守破離(しゅはり)」の意味を重視する。
「守」は「修」であり、師の教えあり、古からの教えを学び身に付けることである。「破」は、そうした既存の概念や枠組み、或いは秩序を破壊すること。「離」とは、守と破から学んだ既存のものを離れて自分自身の型を創造して行くこと。
つまり、如何に伝統を重んじる武道や芸事とあろうと、単に伝統を守り伝えようとするだけでは、結局のところ伝統を守れなくなってしまうということだ。
古くから伝えられたことは、先人が失敗を積み重ねた中で厳選したことでもあり、これを何も考えずに学ぶということは、大きな失敗もせずに近道で辿り着いているということでもある。だが、修行はそんな楽なことで好い筈があるまい。
況してやそれだけ学んだところで、先人が辿り着いた処からは先へ進むことは出来ない訳で、ここで初めて「破」と「離」が必要となってくるのである。
「温故知新」という。古きを訪ねて新しきを知ることの必要さを教えているが、それにはやはりそこから古きから突き抜け新しきを知る努力が必要となる。
神宮(伊勢)で20年毎に行われる「式年遷宮」の教えは「常若」だが、伝統に学び、根本的な精神を後世に存続させて行くには、新しい息吹を注入する必要があり、そうすることで伝統が再生し、更なる伝統となって受け継がれて行くのである。
「常若(とこわか)」とは、繰り返し再生することで、いつも変わらない姿で、瑞瑞しい儘に「永遠」を目指すことをと言う。この「常若」こそが神宮の大本の精神であり、この思いと祈りこそが我が国の先人の英知を象徴していると言えよう。
「万葉集」の時代には全ての物に魂が宿るとする信仰があった。米には稲魂(いなだま)、木には木魂(木魂・こだま)、言葉には言霊(ことだま)と言う様に。
国にも国魂(くにだましい)が在るとされた。オオヒルメムチといわれた「天照大神」は光の魂であり、日霊である。その神や国の魂を清新にすれば、我が国は若々しく愈々栄える。つまり弥栄(いやさか)になるとされたのだ。
20年毎に国の魂を生まれ変わらせることに拠って国家が若返り、そのことで永遠を目指そうとするのであるが、何とロマンチックで素晴らしい想いであろうか。
「常若」というのは、「古事記」や「万葉集」にある「常世(とこよ)」と同じ様に御目出度いことで、室町時代の古文書にもしばしば出てくるが、いつも若々しいこと、永遠に若いことを意味し、それは正しく神宮の目指す理念である。
いにしへの姿のままにあらためぬ神のやしろぞたふとかりける(明治天皇御製)
唯、やみくもに新しいことをやれば好いというものでもなく、その好い塩梅が難しい。そこで大事なのは古いことに学び、習得し、それを確り護るのは言うまでもない。確りした土台がなければ、伝統を後世に存続させることは出来ない。
現在の我が国の政治に欠けているのも古の教えであり、過去を振り返り、そこから学び、未来に活かすことこそ大事である。先人の営為に想いを馳せ活かすこそが真の「保守」である。政治の世界こそ「守・破・離」の教えが必要なのかもな。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
凡その意味は、「15から30までは師の教えを忠実に守り、30歳からは自分なりに思索し、40歳からは師の教えとは逆にやってみる必要があるということ。50歳からは師の如く振る舞うことで己も名人の域になれるということだ」という訓え。
この訓えは茶人の山内宗二の言葉だが、この「茶湯年来稽古」の基となっているのが、宗二の師であった千利休の「守、破・離」の心である。伝統的武道や芸事の世界の子弟関係の在り方というのは、この「守破離(しゅはり)」の意味を重視する。
「守」は「修」であり、師の教えあり、古からの教えを学び身に付けることである。「破」は、そうした既存の概念や枠組み、或いは秩序を破壊すること。「離」とは、守と破から学んだ既存のものを離れて自分自身の型を創造して行くこと。
つまり、如何に伝統を重んじる武道や芸事とあろうと、単に伝統を守り伝えようとするだけでは、結局のところ伝統を守れなくなってしまうということだ。
古くから伝えられたことは、先人が失敗を積み重ねた中で厳選したことでもあり、これを何も考えずに学ぶということは、大きな失敗もせずに近道で辿り着いているということでもある。だが、修行はそんな楽なことで好い筈があるまい。
況してやそれだけ学んだところで、先人が辿り着いた処からは先へ進むことは出来ない訳で、ここで初めて「破」と「離」が必要となってくるのである。
「温故知新」という。古きを訪ねて新しきを知ることの必要さを教えているが、それにはやはりそこから古きから突き抜け新しきを知る努力が必要となる。
神宮(伊勢)で20年毎に行われる「式年遷宮」の教えは「常若」だが、伝統に学び、根本的な精神を後世に存続させて行くには、新しい息吹を注入する必要があり、そうすることで伝統が再生し、更なる伝統となって受け継がれて行くのである。
「常若(とこわか)」とは、繰り返し再生することで、いつも変わらない姿で、瑞瑞しい儘に「永遠」を目指すことをと言う。この「常若」こそが神宮の大本の精神であり、この思いと祈りこそが我が国の先人の英知を象徴していると言えよう。
「万葉集」の時代には全ての物に魂が宿るとする信仰があった。米には稲魂(いなだま)、木には木魂(木魂・こだま)、言葉には言霊(ことだま)と言う様に。
国にも国魂(くにだましい)が在るとされた。オオヒルメムチといわれた「天照大神」は光の魂であり、日霊である。その神や国の魂を清新にすれば、我が国は若々しく愈々栄える。つまり弥栄(いやさか)になるとされたのだ。
20年毎に国の魂を生まれ変わらせることに拠って国家が若返り、そのことで永遠を目指そうとするのであるが、何とロマンチックで素晴らしい想いであろうか。
「常若」というのは、「古事記」や「万葉集」にある「常世(とこよ)」と同じ様に御目出度いことで、室町時代の古文書にもしばしば出てくるが、いつも若々しいこと、永遠に若いことを意味し、それは正しく神宮の目指す理念である。
いにしへの姿のままにあらためぬ神のやしろぞたふとかりける(明治天皇御製)
唯、やみくもに新しいことをやれば好いというものでもなく、その好い塩梅が難しい。そこで大事なのは古いことに学び、習得し、それを確り護るのは言うまでもない。確りした土台がなければ、伝統を後世に存続させることは出来ない。
現在の我が国の政治に欠けているのも古の教えであり、過去を振り返り、そこから学び、未来に活かすことこそ大事である。先人の営為に想いを馳せ活かすこそが真の「保守」である。政治の世界こそ「守・破・離」の教えが必要なのかもな。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
cordial8317 at 06:37│Comments(0)
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。