2013年01月22日
犠牲となられた企業戦士の方々の御悔やみ申し上げます
アルジェリア人質事件で多くの日本人が殺害されたことは、言い方は悪いが、改めて日本人が「平和」というものを考えるいい機会になったのではないだろうか。
政府にしても、憲法論を語らずして国の安全保障や国民の安全を語ったところで意味はない。集団的自衛権の問題にしろ海外での邦人救出に関しても、自衛隊法の改正という目先だけの改革で終わってしまうことがあってはならない。
今回の事件を機に、政治が成すべきことは、国の基本法として機能していない現憲法の矛盾と不条理を大いに語り、日本人自らの手で新憲法を創り、国防体制を強化し、国民の生命と安全を如何に護るかということが大事かを国民に問うべきだ。
国防の目的は「平和」にあり、「戦争」にある訳ではない。日本の政治の愚かさは、「国防」そのものまで否定してしまっていることで、「国防」を除いてしまったら、国家の存在意義まで失われてしまうことに気が付いていない。
「国防」とは単に領土主権の防衛だけに限らず、三島由紀夫が訓えた様に「それを亡くしてしまったら日本ではなくなってしまうものを守り抜くこと」に在る。
「国を護る」ということは、つまり、我が国の国柄である民族、宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度を護るであり、世界の中で最も優れた我が国の精神文化や未来の子供達、そして何より皇統を死守し、継承して行くことであるのだ。
「国防」で重要なことは、国民が公開の場でよく議論することで、「何から、何を護るのか」を明確にした上で、国防の範囲を画定することが基本である。
アルジェリアの邦人殺害は、我が国の法整備の欠落と危機管理能力の欠如と脆弱さを顕わにした。今回の事件を教訓に、これらの妨げになっている現憲法の議論と見直しから始めるべきだが、未だ現憲法を金科玉条の如く奉り、このクソ憲法を守ってさえいれば平和が続くと思っている輩も多く存在してるのは困ったものだ。
「平和ボケ」という言葉は、高度成長からバブル時代にかけて、金儲けや飽食に狂奔してきた世相や空想的平和論を弄び、米国の核には反対しても、中国共産党やロシアの核兵器には反対したことも無い左翼運動家を揶揄したものだ。
今や左翼に止まらず、国民の多くが、米国の庇護の下でのまやかしの平和に気付かぬ儘に、魂亡き繁栄に現を抜かし、私利私欲に狂奔してしまっている。タレントのフィフィは現在の「平和ボケ」について実に分かり易くこう教えている。
「平和ボケとは、まともな情報が流れてこなくて、娯楽ばっか与えられて、いつしかモラルすらこだわらなくなって、それを平和と思い込まされてて。水面下でうごめく危機に気づか無くて、いや気づか無いように教育されて。気が付けば、時すでに遅しの状態のこと」。このフィフィの喩えは蓋し正論であろう。
今や平和主義の理念を守れば平和が訪れる時代ではない。今迄の我が国の平和は米国の軍事力の賜物と、単なる偶然に過ぎないのだ。今こそ、日本人の手で真の「平和」を自分達で創り出さねばならない。今回、アルジェリアの地で犠牲となられた日本企業の戦士の方々に心より御悔やみ申し上げます。合掌。
政府にしても、憲法論を語らずして国の安全保障や国民の安全を語ったところで意味はない。集団的自衛権の問題にしろ海外での邦人救出に関しても、自衛隊法の改正という目先だけの改革で終わってしまうことがあってはならない。
今回の事件を機に、政治が成すべきことは、国の基本法として機能していない現憲法の矛盾と不条理を大いに語り、日本人自らの手で新憲法を創り、国防体制を強化し、国民の生命と安全を如何に護るかということが大事かを国民に問うべきだ。
国防の目的は「平和」にあり、「戦争」にある訳ではない。日本の政治の愚かさは、「国防」そのものまで否定してしまっていることで、「国防」を除いてしまったら、国家の存在意義まで失われてしまうことに気が付いていない。
「国防」とは単に領土主権の防衛だけに限らず、三島由紀夫が訓えた様に「それを亡くしてしまったら日本ではなくなってしまうものを守り抜くこと」に在る。
「国を護る」ということは、つまり、我が国の国柄である民族、宗教、言語、歴史、価値観、習慣、制度を護るであり、世界の中で最も優れた我が国の精神文化や未来の子供達、そして何より皇統を死守し、継承して行くことであるのだ。
「国防」で重要なことは、国民が公開の場でよく議論することで、「何から、何を護るのか」を明確にした上で、国防の範囲を画定することが基本である。
アルジェリアの邦人殺害は、我が国の法整備の欠落と危機管理能力の欠如と脆弱さを顕わにした。今回の事件を教訓に、これらの妨げになっている現憲法の議論と見直しから始めるべきだが、未だ現憲法を金科玉条の如く奉り、このクソ憲法を守ってさえいれば平和が続くと思っている輩も多く存在してるのは困ったものだ。
「平和ボケ」という言葉は、高度成長からバブル時代にかけて、金儲けや飽食に狂奔してきた世相や空想的平和論を弄び、米国の核には反対しても、中国共産党やロシアの核兵器には反対したことも無い左翼運動家を揶揄したものだ。
今や左翼に止まらず、国民の多くが、米国の庇護の下でのまやかしの平和に気付かぬ儘に、魂亡き繁栄に現を抜かし、私利私欲に狂奔してしまっている。タレントのフィフィは現在の「平和ボケ」について実に分かり易くこう教えている。
「平和ボケとは、まともな情報が流れてこなくて、娯楽ばっか与えられて、いつしかモラルすらこだわらなくなって、それを平和と思い込まされてて。水面下でうごめく危機に気づか無くて、いや気づか無いように教育されて。気が付けば、時すでに遅しの状態のこと」。このフィフィの喩えは蓋し正論であろう。
今や平和主義の理念を守れば平和が訪れる時代ではない。今迄の我が国の平和は米国の軍事力の賜物と、単なる偶然に過ぎないのだ。今こそ、日本人の手で真の「平和」を自分達で創り出さねばならない。今回、アルジェリアの地で犠牲となられた日本企業の戦士の方々に心より御悔やみ申し上げます。合掌。
cordial8317 at 08:14│Comments(0)
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