2013年01月09日
「教育」は国の大本であり子供達は日本の宝です
大阪の市立桜宮高校でバスケ部顧問から体罰を受けた高校2年の生徒が自殺する事件が起きた。愚生は常々「体罰という愛が子供の理性を正しく鍛える」というのを持論にしている。子供を躾ける上で、「理性」に問い掛けて、それを理解出来る子供や生徒には効果的だが、言っても分からない子供には全く効果はない。
何度言い聞かせても理解出来ない、或いは何度も同じ様な過ちを犯す子供や生徒には、体罰に拠って「善悪」というものを「本能」に問い掛けることも大事だとも言っている。 だがそれには、教える立場に在る教師や躾をする親は日々子供達に愛情を注ぎ、子供達から敬愛、尊敬されることが大事なのは言うまでもない。
指導や意見の仕方を分かり易く教えているものに愚生も愛読する「葉隠」がある。「葉隠」というと右翼的とか、忠君愛国的と思い込んでいる人も多いだろう。
本文冒頭での「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」だけが独り歩きし、読まずに「危険な書」だと思っているのではないだろうか。この本は類の無い不思議な道徳書なのだ。文中には「人への意見」として次の様なことが述べられている。
「人に意見してその人の欠点を直すということは大切なことであり、慈悲の心とも言える。ただ、意見の仕方には骨を折る必要がある。大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だ。こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」
「意見というものは先ず、その人がそれを受け入れられるかどうかを見極め、相手と親しくなり、何時も信用する様な状態で仕向ける処から始めなければならない。言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計な事を言わなくても思い当たる様に仕向けるのが良い。先ずは良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが意見というものである」
なんと細やかな心遣い、これ程の気遣いをする現代人はいないだろう。今回の自殺は、部活動での先生と生徒の考え方の違いだろうが、この先生は果たして生徒への愛を以て相対していたのだろうか。単に自分のエゴからの行動であって、体罰も自己満足に過ぎなかったのではないのか。つまり、意見の仕方が間違っていたと思う。
この教師も純粋に生徒を「強くさせたい」とか「上手にさせたい」という気持ちばかりが先走りして、意味の無い体罰を繰り返していたのではないのだろうかと思う。また、自殺した生徒は先生に対し敬う気持ちが果たして在ったのだろうか。
愚生は小学校4年生から剣道を始め、中学2年の時に初段に合格した。高校時代は1年からレギュラーでそこそこ活躍していた。だが、高校2年になった頃からだろうか、「オマエのは残心が悪い。何度言ったら分かるんだ」と貶され続け、「なんでオレばっか言われるのだろう」とやる気をなくし、結局、部活を辞めた。
その貶され続けた「残心」だが、国士舘大学の剣道の授業で、日本一の指導者と言われる右田先生に「佐久間の残心は素晴らしい。有段者の中でも一番良い」と褒められたことがあった。こう見えても褒められりゃ伸びるタイプなんです(笑)
要は、指導者によって見方や考え方も違う訳で、人生に「もし」はないが、もしも高校時代に腐って剣道を辞めないで続けていれば違った人生になったかもしれない。
高校時代の顧問と親戚の葬儀で再会したことがあった。すると先生は、「佐久間君の剣道は柔らかく、教え子の中でもいいものを持ってたんだがなぁ」と言われたことを思い出す。「何で、それを高校時代に言ってくれなかったんですか」と聞けば、「佐久間君なら幾ら叩いても大丈夫だと思ったんだよ」と元顧問の先生。
「でも、先生、100回やって100回貶されれば、やる気はなくなりますよ(笑)」というと、「そうだな、悪かったな。もう一度やらないか。春には五段を授与するから」と、町の道場に誘われたのは好いが、五段取得前に本当に挫折した(笑)
先生と言われる立場の人はその言動や一挙手一投足の責任の重みを自覚して、人を見る目を養うべきだとも思う。人を見る目というのは人生哲学そのもの。そういう意味で、教師というのは人を見る目を養う機会に恵まれていない様にも感じる。
こうした体罰問題や自殺が起きる度に解決策も何ら講じずに、右往左往した揚句に平身低頭するばかりの教育委員会というのもホント厭きれるばかりだが、こうした陋習を廃し、根本的な教育改革を進めて頂きたいものだ。 教育は国の大本であり、子供達は日本の宝だ。「教育勅語」を指導原理とし教育の再生を図るべし。
何度言い聞かせても理解出来ない、或いは何度も同じ様な過ちを犯す子供や生徒には、体罰に拠って「善悪」というものを「本能」に問い掛けることも大事だとも言っている。 だがそれには、教える立場に在る教師や躾をする親は日々子供達に愛情を注ぎ、子供達から敬愛、尊敬されることが大事なのは言うまでもない。
指導や意見の仕方を分かり易く教えているものに愚生も愛読する「葉隠」がある。「葉隠」というと右翼的とか、忠君愛国的と思い込んでいる人も多いだろう。
本文冒頭での「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」だけが独り歩きし、読まずに「危険な書」だと思っているのではないだろうか。この本は類の無い不思議な道徳書なのだ。文中には「人への意見」として次の様なことが述べられている。
「人に意見してその人の欠点を直すということは大切なことであり、慈悲の心とも言える。ただ、意見の仕方には骨を折る必要がある。大方の人は、人に好まれない言い難い事を言ってやるのが親切の様に思い、それが受け入れられなければ、自分の力が足りなかったとしている様だ。こうしたやり方は何ら役に立たない。ただ悪戯に人に恥をかかせ、悪口を言うだけの事と同じ結果になってしまう」
「意見というものは先ず、その人がそれを受け入れられるかどうかを見極め、相手と親しくなり、何時も信用する様な状態で仕向ける処から始めなければならない。言い方なども工夫し、時節を考え、自分の失敗談等を話しながら、余計な事を言わなくても思い当たる様に仕向けるのが良い。先ずは良い処を褒めて気分を引き立てる様に心を砕き、そうした上で欠点を直していくというのが意見というものである」
なんと細やかな心遣い、これ程の気遣いをする現代人はいないだろう。今回の自殺は、部活動での先生と生徒の考え方の違いだろうが、この先生は果たして生徒への愛を以て相対していたのだろうか。単に自分のエゴからの行動であって、体罰も自己満足に過ぎなかったのではないのか。つまり、意見の仕方が間違っていたと思う。
この教師も純粋に生徒を「強くさせたい」とか「上手にさせたい」という気持ちばかりが先走りして、意味の無い体罰を繰り返していたのではないのだろうかと思う。また、自殺した生徒は先生に対し敬う気持ちが果たして在ったのだろうか。
愚生は小学校4年生から剣道を始め、中学2年の時に初段に合格した。高校時代は1年からレギュラーでそこそこ活躍していた。だが、高校2年になった頃からだろうか、「オマエのは残心が悪い。何度言ったら分かるんだ」と貶され続け、「なんでオレばっか言われるのだろう」とやる気をなくし、結局、部活を辞めた。
その貶され続けた「残心」だが、国士舘大学の剣道の授業で、日本一の指導者と言われる右田先生に「佐久間の残心は素晴らしい。有段者の中でも一番良い」と褒められたことがあった。こう見えても褒められりゃ伸びるタイプなんです(笑)
要は、指導者によって見方や考え方も違う訳で、人生に「もし」はないが、もしも高校時代に腐って剣道を辞めないで続けていれば違った人生になったかもしれない。
高校時代の顧問と親戚の葬儀で再会したことがあった。すると先生は、「佐久間君の剣道は柔らかく、教え子の中でもいいものを持ってたんだがなぁ」と言われたことを思い出す。「何で、それを高校時代に言ってくれなかったんですか」と聞けば、「佐久間君なら幾ら叩いても大丈夫だと思ったんだよ」と元顧問の先生。
「でも、先生、100回やって100回貶されれば、やる気はなくなりますよ(笑)」というと、「そうだな、悪かったな。もう一度やらないか。春には五段を授与するから」と、町の道場に誘われたのは好いが、五段取得前に本当に挫折した(笑)
先生と言われる立場の人はその言動や一挙手一投足の責任の重みを自覚して、人を見る目を養うべきだとも思う。人を見る目というのは人生哲学そのもの。そういう意味で、教師というのは人を見る目を養う機会に恵まれていない様にも感じる。
こうした体罰問題や自殺が起きる度に解決策も何ら講じずに、右往左往した揚句に平身低頭するばかりの教育委員会というのもホント厭きれるばかりだが、こうした陋習を廃し、根本的な教育改革を進めて頂きたいものだ。 教育は国の大本であり、子供達は日本の宝だ。「教育勅語」を指導原理とし教育の再生を図るべし。
cordial8317 at 08:30│Comments(0)
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