2013年01月08日
会津の「白虎隊」と二本松の「少年隊」
NHK大河ドラマ「八重の桜」の初回の視聴率は視聴率は21.4%、福島地区では30%超えだったという。原発事故で逸早く福島から逃げ出した県民もドラマで「福島訛り」や「会津弁」を聞いて懐かしく思いながら観たことだろう。
ドラマでは会津だけではなく白河や二本松の激戦のシーンも描かれるというので、今後も愉しみにしている。会津の「白虎隊」に比べて「二本松少年隊」を知る者は少ない。白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったのに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳。二本松に生まれ育った愚生も「少年隊」は郷土の誇りである。
慶応4年7月27日、木村銃太郎隊長(22)に率いられた少年隊士23名は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。その二日後の午前9時頃、隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かって、銃太郎の号令一下、終に戦史に残る激戦が開始された。
だが、少年隊の奮闘空しく、銃太郎は二の腕に銃弾を受けながらも木村隊長は少年達に退去を命じる。迫り来る西軍を睨みつつ、周囲の味方の陣の様子を窺ってみると味方はもう既に退却した後で、少年隊は孤立無援の危機に直面した。
銃太郎は、大砲の火門に釘を打ち込んで使用不能にした後に、次の指示しようと口を開きかけたその刹那、西軍の敵弾が銃太郎の腰を貫き思わず腰から崩れ落ちた。
「最早、これまで」と、銃太郎は少年達に自らの斬首を命じる。「隊長死んじまった、どうすっぺぇ」と号泣しながら棒や素手で土を掘りその遺骸を葬ったという。
二本松藩には代々、「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という剣術の極意が伝わっている。これは、赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城にて吉良上野介を討ち漏らしたことを聞いた二本松藩初代藩主の丹羽光重が、「何故、浅野公は斬りつけたのか。斬りつけずに突けばよかったものを!」と、酷く悔しがったという。
爾来、二本松に於いては「斬らずに突け」が伝統となった。成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも「斬らずに突け」だった。その才次郎、大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
才次郎は、「必ず西軍の敵将を斃してやる」との決死の思いで城下の郭内のとある物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに如何にも立派な武士が一隊を率いてやってくるのが見えた。それは、長州藩士・白井小四郎が率いる部隊だった。
才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、「此処ぞ!」というところで大刀を真っ直ぐに構えるや一気に白井に向って突進した。然し、歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。
「子どもじゃ、手を出すでない」と白井隊長は、必死に突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜いて、部隊の兵を制した。それが徒となり、才次郎の剣は狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。白井は、思わず落馬した。
驚愕した長州兵らは才次郎を捕えようとするが剣を振り回す少年に近寄ることも出来ず、已む無く射殺してこの小さな勇士を倒すことが出来た。才次郎、14歳。
会津藩の飯島(木村)八重と同じ様に、当時は最新鋭のスペンサー(元締め)銃を手に奮闘したのは二本松少年隊の小澤幾弥である。弱冠17歳。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
二本松戦争では、阿武隈川を超え霞ヶ城(二本松城)に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒した。だが、その抵抗も虚しく師・朝河八太夫と討ち死にする。因みに、砲術師範である八太夫は世界的歴史学者である朝河貫一博士の祖父である。
薩摩藩士で陸軍元帥・野津道貫は回顧談(近世国民史)で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と述懐している。
会津武士道の昇華を「白虎隊」に例えるのなら「二本松少年隊」も二本松武士道の昇華そのものであり、二本松が故郷である愚生にとって少年隊は英雄である。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
ドラマでは会津だけではなく白河や二本松の激戦のシーンも描かれるというので、今後も愉しみにしている。会津の「白虎隊」に比べて「二本松少年隊」を知る者は少ない。白虎隊士の構成年齢が16~17歳だったのに対し、二本松少年隊の最年少隊士の年齢は僅か12歳。二本松に生まれ育った愚生も「少年隊」は郷土の誇りである。
慶応4年7月27日、木村銃太郎隊長(22)に率いられた少年隊士23名は、城下西口の要衝である大壇口に布陣。その二日後の午前9時頃、隊伍を組んで進軍してくる西軍に向かって、銃太郎の号令一下、終に戦史に残る激戦が開始された。
だが、少年隊の奮闘空しく、銃太郎は二の腕に銃弾を受けながらも木村隊長は少年達に退去を命じる。迫り来る西軍を睨みつつ、周囲の味方の陣の様子を窺ってみると味方はもう既に退却した後で、少年隊は孤立無援の危機に直面した。
銃太郎は、大砲の火門に釘を打ち込んで使用不能にした後に、次の指示しようと口を開きかけたその刹那、西軍の敵弾が銃太郎の腰を貫き思わず腰から崩れ落ちた。
「最早、これまで」と、銃太郎は少年達に自らの斬首を命じる。「隊長死んじまった、どうすっぺぇ」と号泣しながら棒や素手で土を掘りその遺骸を葬ったという。
二本松藩には代々、「必殺を期すには、斬らずに突くべし」という剣術の極意が伝わっている。これは、赤穂藩主の浅野内匠頭が江戸城にて吉良上野介を討ち漏らしたことを聞いた二本松藩初代藩主の丹羽光重が、「何故、浅野公は斬りつけたのか。斬りつけずに突けばよかったものを!」と、酷く悔しがったという。
爾来、二本松に於いては「斬らずに突け」が伝統となった。成田才次郎が出陣の際に父から訓されたのも「斬らずに突け」だった。その才次郎、大壇口から敗走中の混乱で隊士はバラバラになってしまい、郭内まで戻るも戦意は尚も旺盛だった。
才次郎は、「必ず西軍の敵将を斃してやる」との決死の思いで城下の郭内のとある物陰に潜んでいたところ、馬上豊かに如何にも立派な武士が一隊を率いてやってくるのが見えた。それは、長州藩士・白井小四郎が率いる部隊だった。
才次郎、隊列が目前に来るまで充分に引き付け、「此処ぞ!」というところで大刀を真っ直ぐに構えるや一気に白井に向って突進した。然し、歴戦の長州兵は、この遮二無二突進する小さな刺客に即座に反応し、隊長を護るべく馬前に出る。
「子どもじゃ、手を出すでない」と白井隊長は、必死に突っ込んで来るのが子供だと瞬時に見抜いて、部隊の兵を制した。それが徒となり、才次郎の剣は狙い違わずこの敵将の脇の下から胸部を突き刺した。白井は、思わず落馬した。
驚愕した長州兵らは才次郎を捕えようとするが剣を振り回す少年に近寄ることも出来ず、已む無く射殺してこの小さな勇士を倒すことが出来た。才次郎、14歳。
会津藩の飯島(木村)八重と同じ様に、当時は最新鋭のスペンサー(元締め)銃を手に奮闘したのは二本松少年隊の小澤幾弥である。弱冠17歳。戊辰戦争前まで江戸で育った幾弥は、新式のスペンサー銃を二本松藩に持ち込んだ。
二本松戦争では、阿武隈川を超え霞ヶ城(二本松城)に殺到する西軍を丘の上から次々と撃ち倒した。だが、その抵抗も虚しく師・朝河八太夫と討ち死にする。因みに、砲術師範である八太夫は世界的歴史学者である朝河貫一博士の祖父である。
薩摩藩士で陸軍元帥・野津道貫は回顧談(近世国民史)で「兵数不詳の敵兵は砲列を布いて我軍を邀撃するのであった。我軍は早速之に応戦したが敵は地物を利用して、おまけに射撃はすこぶる正確で一時我軍は全く前進を阻害された。我軍は正面攻撃では奏功せざる事を覚り、軍を迂回させて敵の両側面を脅威し辛うじて撃退することを得たが、怨恐らく戊辰戦中第一の激戦であったろう」と述懐している。
会津武士道の昇華を「白虎隊」に例えるのなら「二本松少年隊」も二本松武士道の昇華そのものであり、二本松が故郷である愚生にとって少年隊は英雄である。
※コメントは返信するのも煩わしいので会員のみにさせて頂いております。コメント及びメッセージ、御意見御感想、近況報告などは mr.cordial@live.jp へ。
《会費&御支援の御願い》みずほ銀行 郡山支店 普1464729 ニッポンロンダンクラブ。年会費一般30000円。法人120000円。協賛会員は300000円~。
cordial8317 at 09:02│Comments(1)
この記事へのコメント
1. Posted by おてつ 2013年08月05日 08:36
はじめまして、二本松を検索していてここにたどり着きました。
私は今、インドネシアで真珠養殖をしております。
私自身は生まれは三重、育ちは大阪なのですが、母方の祖母が二本松出身で、幼少のころ過ごしたこともあります。
祖母の家は武家で、戊辰の戦に総領息子が少年隊として出陣、戦死。お家断絶のところを祖母の祖父が養子として継いで今に至ります。
そういうことで血のつながりはないのですが、大伯母より散々聞かされた少年隊の話、今年は大河で取り上げられ、見て泣きました。
一昨年訪ねたきりですが、福島の様子は如何ですか?
まだいろいろ大変だと思いますが。
ブログもこれ以外にもいろいろ読ませていただきました。
海外にでると、日本を冷静に眺められると同時に、
国内では気付かなかった「いいところ」がやけに浮かんできます。
ここ三年の、日本はどうなっちゃうのだろう?という不安が、最近解消されつつあり、うれしく思ってます。
でも、まだまだこれからだとも思いますが。
縁のある二本松の方のブログを見つけて、
うれしくなりコメントを入れてしまいました。
これからも読ませていただきますので、
よろしくお願いします。
私は今、インドネシアで真珠養殖をしております。
私自身は生まれは三重、育ちは大阪なのですが、母方の祖母が二本松出身で、幼少のころ過ごしたこともあります。
祖母の家は武家で、戊辰の戦に総領息子が少年隊として出陣、戦死。お家断絶のところを祖母の祖父が養子として継いで今に至ります。
そういうことで血のつながりはないのですが、大伯母より散々聞かされた少年隊の話、今年は大河で取り上げられ、見て泣きました。
一昨年訪ねたきりですが、福島の様子は如何ですか?
まだいろいろ大変だと思いますが。
ブログもこれ以外にもいろいろ読ませていただきました。
海外にでると、日本を冷静に眺められると同時に、
国内では気付かなかった「いいところ」がやけに浮かんできます。
ここ三年の、日本はどうなっちゃうのだろう?という不安が、最近解消されつつあり、うれしく思ってます。
でも、まだまだこれからだとも思いますが。
縁のある二本松の方のブログを見つけて、
うれしくなりコメントを入れてしまいました。
これからも読ませていただきますので、
よろしくお願いします。
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